『ハンナ・アーレント』

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考え抜いた思想家が見た、マンハッタンの美しい夜景
star.gifstar.gifstar.gifstar.gif 上原輝樹

ジャーナリストから過激派<バーダー・マインホフ>の活動に参加、最後は獄死した闘士グードルーン・エンスリンを描いた『鉛の時代』(81)、社会主義者ローザ・ルクセンブルクのドラマティックな半生を描いた『ローザ・ルクセンブルク』(86)など、過酷な運命の中で闘う女性たちの肖像を描いてきたマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の新作は、20世紀の最も重要な思想家のひとり、ハンナ・アーレントが、"アイヒマン裁判"のレポートを執筆した4年間に焦点を充て、ひとりの思想家が考えぬき、人々に向けて語りかけた、その生の営みを即物的な筆致で描いている。感傷を排した監督の手捌きは、アーレントの思想を21世紀の観客に向けて明確に照らし出している。

マルティン・ハイデッガー(クラウス・ポール)の下でアーレントと共に哲学を学んだ旧友ハンス・ヨナス(ウルリッヒ・ノエテン)との間で交わされる、歯に衣着せぬ、辛辣なユーモアに満ちた語り口が小気味好い政治談義や、アーレントが父親のように慕ったイスラエルのシオニスト指導者クルト・ブルーメンフェルト(ミヒャエル・デーゲン)との、ゲーテの「ファウスト」からの言葉を引用して展開される"アイヒマン"を巡る対話には、それぞれの立場を超えて知性が行き交う快活さが漲っている。アーレントからの"アイヒマン裁判"のレポート執筆の申し出を快諾したザ・ニューヨーカー誌編集部において、アーレントの評価を巡って交わされる会話(アーレントを擁護する編集長ウィリアム・ショーンをニコラス・ウッドソンが好演)すら、スノッブな面白さで、映画の序盤を牽引していく。

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しかし、アーレントを囲む順風満帆な空気は、ザ・ニューヨーカー誌にアイヒマン裁判のレポートが掲載されるやいなや、一斉に逆風となって吹き始め、彼女と親しい者たちまでもが非難の眼差しを向けるようになっていく。そんな逆境の中でも、アーレントの夫、社会主義者であったハインリッヒ・ブルュッヒャー(アクセル・ミルベルク)と若さに似つかわしくない落ち着き払った物腰が魅力のユリア・イェンチが演じる秘書のロッテ・ケーラー、そして、肉感的な体を揺らしながら快活さそのものを齎すジャネット・マクティアが演じる、アーレントの親友メアリー・マッカーシーが、彼女を支えたことを、フォン・トロッタ監督は静謐なタッチで描いている。

アイヒマン裁判の傍聴に臨み、人類史上稀にみる虐殺行為に加担した人間が一体どのように"見えるのか"を知ろうとしたアーレントが、そこで見たのは、およそ"メフィストフェレス"のような存在からはほど遠い、杓子定規に官僚用語と紋切り型で尋問に答えるばかりのアイヒマンの姿だった。アイヒマンには思考と判断力が全く欠如しており、自分の従事する仕事がどのような結果をもたらすのか、想像する事すら出来なかった、彼はただ命令に従って、自分の職務を全うしていただけだったと、アーレントは洞察し、この事態を「恐るべき、言葉に言い表す事も考えてみることもできぬ悪の陳腐さ」と呼んだ。

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ナチスの官僚システムの中で思考停止に陥った"役人"アイヒマンが犯した罪は、悪の凡庸さとしか形容しようのない陳腐なものでありながら、"考えない"という人間性に対して最大の罪を負うべき(無作為の)行為だった。同時に、アーレントは、この裁判が、山中で野獣を捉えるように拉致されて公けの場に引きずり出されたアイヒマンに、最大の罰を与えることが自体が目的化されていることを危惧した。本作で重要なのは、この"アイヒマン裁判"が、俳優によって演じられのではなく、実際の裁判の映像が使われ、アーレントを演じるバルバラ・スコヴァと切り返しで"映像の中のアイヒマン"が対峙されていることだ。

映画は、実際のアーレントが、裁判所において生のアイヒマンを見ていたのではなく、傍聴用の記者室において、テレビ画面でアイヒマンを見ていたことを伝えている。フォン・トロッタ監督は、実際の"裁判"や"アイヒマン"との距離が、裁判所で"演じられていること"を冷徹に見抜くことができたことと決して無関係ではなかったであろうこと、そして、思考停止に陥った人物の対極にあろうとする、"考える人"アーレントの姿を鮮やかな対比のもとに描き出している。

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アーレントによる裁判傍聴記は、アイヒマンをはじめとする多くのドイツ人が思考停止に陥ったことのみならず、裁判において被告を"悪魔"のように扱おうとすることの、二重の意味においての非人間性に言及しているが、アーレントは、アイヒマンを野獣を狩るように血祭りにあげることを拒否しただけではなく、ユダヤ人の指導者たちの一部がナチスの「最終解決」遂行の手助けをしたこと、その手助けがなければ、ここまで効率的に"任務"が遂行されることは難しかったという論を展開し、ユダヤ人コミュニティを敵に回してしまう。

しかし、"思想家"であるアーレントは、そこでも考え抜くしかない。どちらの側にも"正義"がない場合、あるいは、どちらの側にもそれなりの"正義"がある場合も同じことかもしれないが、思考する能力を持つものはそこで考え抜き、自らの言葉でその事態を言い表すしか、生きる術がないからだ。「これは国民性に由来する。ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断に従って断罪することを好まない国民はいない。~中略~ 彼らはハトのようにおとなしく、怒りがない。だが怒りのない人間は知力もない。」とショーペンハウアーが、19世紀中頃に同時代の文学者たちの"ドイツ人気質"を呪った言葉は、まるでアイヒマン、その人に向けられているようでもあり、100年後に起きる悲劇の萌芽への警笛だったようにも思える。

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しかし、"全体主義"を生んだのはドイツばかりではないことを、私たち日本人はよく知っているはずだ。だからこそ、21世紀の今、"手すりのない状態で思考"し、自らの正義に基づいて言葉を著した、ハンナ・アーレントと呼ばれたひとりの女性が、森を歩き、ソファに横たわり、煙草の煙をくゆらせる、そして、多くの若い学生たちの前で怒りを滲ませ、自らの考えを勇敢に語る、バルバラ・スコヴァが演じきった、その姿を、瞼の裏に焼き付けておかなければならないと意思を働かせようとする反面、エンディングで印象的に写される、アーレントが見たに違いない、憧れの"新世界"マンハッタンの美しい夜景ばかりが郷愁を誘う。


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『ハンナ・アーレント』
原題:Hannah Arendt

10月26日(土)より、岩波ホールにてロードショー
 
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
製作:ベティーナ・ブロケンパー、ヨハネス・レクシン
脚本:パム・カッツ、マルガレーテ・フォン・トロッタ
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
編集:ベッティナ・ボーラー
音楽:アンドレ・メルゲンターラー
出演:バルバラ・スコヴァ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア、ユリア・イェンチ、ウルリッヒ・ヌーテン、ミヒャエル・デーゲン

© 2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl,MACT Productions SA ,Metro Communicationsltd.

2012年/ドイツ・ルクセンブルク・フランス/114分/カラー・モノクロ/スコープ
配給:セテラ・インターナショナル

『ハンナ・アーレント』
オフィシャルサイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
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