ナチスの官僚システムの中で思考停止に陥った"役人"アイヒマンが犯した罪は、悪の凡庸さとしか形容しようのない陳腐なものでありながら、"考えない"という人間性に対して最大の罪を負うべき(無作為の)行為だった。同時に、アーレントは、この裁判が、山中で野獣を捉えるように拉致されて公けの場に引きずり出されたアイヒマンに、最大の罰を与えることが自体が目的化されていることを危惧した。本作で重要なのは、この"アイヒマン裁判"が、俳優によって演じられのではなく、実際の裁判の映像が使われ、アーレントを演じるバルバラ・スコヴァと切り返しで"映像の中のアイヒマン"が対峙されていることだ。
映画は、実際のアーレントが、裁判所において生のアイヒマンを見ていたのではなく、傍聴用の記者室において、テレビ画面でアイヒマンを見ていたことを伝えている。フォン・トロッタ監督は、実際の"裁判"や"アイヒマン"との距離が、裁判所で"演じられていること"を冷徹に見抜くことができたことと決して無関係ではなかったであろうこと、そして、思考停止に陥った人物の対極にあろうとする、"考える人"アーレントの姿を鮮やかな対比のもとに描き出している。
アーレントによる裁判傍聴記は、アイヒマンをはじめとする多くのドイツ人が思考停止に陥ったことのみならず、裁判において被告を"悪魔"のように扱おうとすることの、二重の意味においての非人間性に言及しているが、アーレントは、アイヒマンを野獣を狩るように血祭りにあげることを拒否しただけではなく、ユダヤ人の指導者たちの一部がナチスの「最終解決」遂行の手助けをしたこと、その手助けがなければ、ここまで効率的に"任務"が遂行されることは難しかったという論を展開し、ユダヤ人コミュニティを敵に回してしまう。
しかし、"思想家"であるアーレントは、そこでも考え抜くしかない。どちらの側にも"正義"がない場合、あるいは、どちらの側にもそれなりの"正義"がある場合も同じことかもしれないが、思考する能力を持つものはそこで考え抜き、自らの言葉でその事態を言い表すしか、生きる術がないからだ。「これは国民性に由来する。ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断に従って断罪することを好まない国民はいない。~中略~ 彼らはハトのようにおとなしく、怒りがない。だが怒りのない人間は知力もない。」とショーペンハウアーが、19世紀中頃に同時代の文学者たちの"ドイツ人気質"を呪った言葉は、まるでアイヒマン、その人に向けられているようでもあり、100年後に起きる悲劇の萌芽への警笛だったようにも思える。
しかし、"全体主義"を生んだのはドイツばかりではないことを、私たち日本人はよく知っているはずだ。だからこそ、21世紀の今、"手すりのない状態で思考"し、自らの正義に基づいて言葉を著した、ハンナ・アーレントと呼ばれたひとりの女性が、森を歩き、ソファに横たわり、煙草の煙をくゆらせる、そして、多くの若い学生たちの前で怒りを滲ませ、自らの考えを勇敢に語る、バルバラ・スコヴァが演じきった、その姿を、瞼の裏に焼き付けておかなければならないと意思を働かせようとする反面、エンディングで印象的に写される、アーレントが見たに違いない、憧れの"新世界"マンハッタンの美しい夜景ばかりが郷愁を誘う。
Comment(0)