『果てなき路』

上原輝樹
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殺風景な一室で、男が Road to Nowhere と書かれた DVDをPCで再生する。キャメラは、ひどくゆっくりとPC画面内のヴェルマ(シャニン・ソサモン)に寄っていき、観客を劇中劇『果てなき路(Road to Nowhere)』の世界へ誘うだろう。シネマスコープのサイズにピタリとはまる構図で、ベッドの上のヴェルマが長い脚を投げ出し、ドライヤーでマニキュアを乾かしている。部屋ではサミー・スミスが唄うクリス・クリストファーソンの「Help me make it through the Night」がかかり、ドライヤーの音が鳴り続けている。画面で動いているのは、ドライヤーで乾かす指先とストッキングを履いた足先だけという時間が暫し続いただろうか。このゆったりとした呼吸が豊かな映画の時間を生起させる。

不意にカットが切り替わり、窓の外にダークカラーの車が乗り付け、男が降りてくる。車からは無線ラジオから警察のものらしき情報が流れている。この一連の動作を窓の内側から見つめている人物の姿が室内の灯りで照らし出されている。その男は、車から降りてきた男を家に迎え入れる。しばらく車の無線が鳴り続ける中、突如、銃声が夜の乾燥した空気を震わせる。

カットが変わり、シンプルなタイトルクレジットが表示される、その背景で、ヴェルマが家から外に出てシルバーの自家用車に乗り込んで走り去る姿をキャメラはパンで捉えている。"カントリーミュージックのジェイムス・ジョイス"(©M・ヘルマン)、トム・ラッセルが本作のために書き下ろした文学的隠喩に満ちたタイトルソング「Road to Nowhere」を朗々と歌い上げる。ヴェルマが去った後、男がひとり、別の車で去っていく。そして、タイトルクレジットのプロダクション名にはミッチェル・へイヴンという見知らぬ名前が冠されている。やがて、それは劇中劇のタイトルクレジットであることがあきらかになるだろう。

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車で走り去った男(クリフ・デ・ヤング)はプロペラ機に乗り換え、未明の空へ飛び立つ、一方、ヴェルマは、トンネルの暗がりで何事かをやり遂げたあと、車を湖畔の脇に止め湖を眺めている。と、その視界に律儀に収まる絶妙な位置に、今しがた離陸したはずのセスナが頭から落ちてくる。鉄の塊が水面に突き刺さる重量感のある音が炸裂する。

画面は、映画本編の、冒頭の殺風景な部屋へと切り替わり、
ジャーナリストのナタリー・ポスト(ドミニク・スウェイン)が、あなたの映画の中のヴェルマはこの後自殺をするわね、と劇中劇の監督ミッチェル・ヘイヴン(タイ・ルニャン)に問いただす。ミッチェルは、映画は事実を元に撮ったのか、あるいは想像の産物なのか、それを知りたいのか?そもそもこの話は君の原案だと切り返す。彼女は、同じ街に済むヴェルマ・デュランが自殺をした事件を調べ記事にしていた。その記事に目を付けたハリウッドのスタジオがこの事件を映画化することになったのが事の発端だから、ミッチェルが君の原案だと切り返したのは、誠に正しいのだが、物語は、この辺りから複雑な入れ子構造の様相を呈して行く。ナタリー・ポスト同様、ヴェルマ事件の真相を追っていた保険調査員のブルーノ(ウェイロン・ペイン)は、その本性を隠したまま、映画の制作現場に潜り込み、事件の真相を究明するスパイとして暗躍することになるだろう。

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映画は、劇中劇の製作過程を追っていく。製作を取り仕切るハリウッドスタジオのプロデューサーは、脚本家スティーブ(ロブ・コラー)が口にしたフィルム・ノワールの一語に過敏に反応し、二度とその言葉を口にするなと叱責するが、今撮られつつある映画はどう見てもフィルム・ノワールと形容するのが妥当で、エグゼクティブ・プロデューサ陣への強烈な皮肉が効いている。キャスティングは、監督のミッチェルと脚本家の二人が行う。キャスティングのプロセスでは、スカーレット・ヨハンソンは名前だけでスルーされ、レオナルド・ディカプリオはジャック・ニコルソンのスチルと共に映像で登場する。こうした映画製作のプロセスは、ヘルマン監督と40年近く共同作業をしてきた脚本のスティーヴン・ゲイドスとヘルマン自らが語っている通り、彼らの実際の映画製作の現場に材と取ったものだという。

とはいえ、明らかにフィクションであるヴェルマの死には、キューバ政府が関連していて、彼女の事件が映画化され、ヴェルマの本性が世間に知れると、キューバにいる彼女の家族が危険に晒される、そのことを恐れる俳優として裕福な暮らしをしているキューバ人男性(ファビオ・テスティ)は、同じく、役者としてハリウッドで生活しているアメリカ政府の諜報員(クリフ・デ・ヤング)を通じて、ヴェルマを演じる女優を誰にするか、ハリウッドスタジオのキャスティングディレクターに働きかける。このキューバ人と諜報員の目論見によってミッチェルの目に止まったのが、ヴェルマを演じることになるローレル・グラハムだった。

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しかしここで、あろうことか、監督のミッチェルはロケーション先のローマで初対面を果たしたローレル・グラハムに一目惚れしてしまう(正確には、それ以前のプロモーションビデオを見た時点から入れ込んでいた)!これこそが映画のマジック!これに関しては、脚本のスティーヴン・ゲイドスがロレール・グラハム役を演じることになるシャニン・ソサモンをLAのル・ブレア通りで実際に見初めたという事実、さらには脚本執筆時点でモンテ・ヘルマン監督を監督役として当て書きしており、その結果、役名をわざわざ同じ頭文字(M・H)のミッチェル・へイヴンにしたという、現実の似姿がベースにある脚本と相待って、『断絶』で観るもののハートを奪った挙句、自ら命を絶ってしまった愛すべき"ザ・ガール"、ローリー・バードに本作が捧げられていることを鑑みれば、全編に張り巡らされた策謀謀略の奥底には、ゴダール並のロマンチストと言いたくなるモンテ・ヘルマン監督の資質が見えてくる。この映画は恥じらいもない"愛"についての映画であると断言しても差し支えないだろう。

ヴェルマ=ローレル・グラハムを演じるシャニン・ソサモンが、思いの外、素晴らしい。その素晴らしさは、そこに存在しているだけで素晴らしかったローリー・バードの素晴らしさとは異質の、サミュエル・フラーの「演じるな」の教えとは裏腹ながらも、携帯電話を放り投げたり、唇を鳴らしてみせたり、といったさり気なくしなやかに「演じられた」所作に表れているように見えるわけだが、ミッチェル=ヘルマンのキャスティング流儀から行くと、そうした所作こそが、シャニン・ソサモンの"素"なのかもしれない。そんなローレルに惚れ込んだミッチェルは、是が非でもローレルにヴェルマを演じるよう出演交渉、ともデートともいわく判別し難い、アプローチを続けていく。だが、ローレルには、映画に出演するわけにはいかない理由があった。なぜなら、彼女自身も、諜報活動に身を捧げる人間だったのだ。

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そのような活動をするものの常として、女優としてのキャリアは一作しかない、というあたりの筋書きも周到に練られていて、サスペンスドラマとしても卓越した作品になっている。脚本のゲイドスとヘルマンが、レネやアントニオーニのジグゾーパズルのような映画が大好きだと揃って認めているように、本作も細かく観て行くとちゃんと完成することが可能なパズルとして作られているように見える。ただし、その作り(編集)が実に錯綜しているために、一度観ただけでは理解出来ない。むしろ、何度も観て、そのパズルを完成させていく愉楽が二回目以降の鑑賞に残された作品と言える。恐らくは、最大の謎として観客を困惑させる"ヴェルマとは誰なのか?"という謎についても、何度か観れば可能な解釈は落ち着いてくるように思える。『果てなき路』は完成可能なパズルなのだ。

本作を初めて観た時に、劇中劇と本編と引用される過去の名作映画までもが、見事にデジタルな質感で統一されながらも、錯綜する物語に途方に暮れた私が、2度目に本作を観た時に、最も困惑させられたのは、この余りに21世紀的意匠で完璧に構築された映画の中に生々しく息づく生身の人間たちの振る舞いや発せられる言葉だった。それは、例えば、ミッチェルとローレルがベッドでヴィクトル・エリセの例の名作映画を観終わった直後に、あなたは全部で何本位映画を観ているのとローレルに聞かれ、ミッチェルが発した「監督に、今までの人生で他人の夢を観ることに何時間費やしたかを聞くのはとても残酷なことだ」という台詞。確かに、他人が作った映画を観る行為は、他人の夢を観ることに等しいのかもしれない。時に、真実というものは、とても残酷なものだ。つまり、このように映画について書くということは、他人が観た夢について、自分の人生の時間を費やして、不確かなことを書き連ねているだけの行為に過ぎないのかもしれない。

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しかし、誰のものであろうと"夢"は消えてなくなっていく。"映画"も同じでスクリーン上に写っている時だけ、"映画"はそこに存在している。DVDで持っていたり、HDに録画していたとしても、それが画面に再生されている時に限って、"映画"はそこに存在している。しかし、人生の中で"その映画"を観ることに費やされる時間なんて、どれ位あるだろうか?映画作家が対象を撮影する時、ドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、その繰り返し不可能な一回性を記憶するために彼らもキャメラを回すのではないかと思う。そのようにして撮影され、幸運にも完成まで漕ぎ着け、上映された"映画"はその都度、儚くも消え去って行く。映画について書く者は、その消え去った"夢"を文章に残すことで、辛うじてその時間、その場所に存在した"映画"の痕跡を世界に留めたいと願うのかもしれない。"映画"を完成させるのは観客の仕事だと、ヘルマン監督も語っているように。

本作においては、あらゆる登場人物が、表向きの姿と本性の二面性を持っている。そして、映画が進行して行くに従って、その二つを分ける境界線は融解していく。もちろん、それは、映画作りと実生活という、二つのファクターが、ヘルマン監督の人生においてわかち難く存在していることの現れに違いない。だから、『断絶』の平行して交わらないかに見えた二つのレーンは、40年後の今、時に交錯し、時に溶解しながらも、暗闇の中へ消えたとしても、ヘッドライトの光によってのみ再び浮かび上がるだろう。これほど錯綜しているように見えても、フィクションにおいて"意味をなすこと"をデヴィッド・リンチのように放棄することがなかったモンテ・ヘルマン監督の作品に出会えた事を嬉しく思う、こういう事があるから映画を観続けることはやめられない。

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『果てなき路』は、『断絶』のローリー・バードに捧げられている

褪色が少ないことで知られるIBテクニカラーで制作された最後のハリウッド映画の一本『断絶』(71)のニュープリント版をシネマスコープの大画面で観る機会もお見逃しなく。

『断絶』ニュープリント版
渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開中
(C) 1971 Universal Pictures and Michael Laughlin Enterprises Inc. All Rights Reserved.
『断絶』公式サイト www.mhellman.com


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『果てなき路』
原題:Road to nowhere

渋谷シアター・イメージフォーラムにてロードショー
 
監督:モンテ・ヘルマン
脚本:スティーヴン・ゲイドス
製作:メリッサ・ヘルマン、モンテ・ヘルマン、スティーヴン・ゲイドス
製作総指揮:トーマス・ネルソン、ジューン・ネルソン
撮影:ジョセフ・M・シヴィット
音楽:トム・ラッセル
音楽監修:アナスタシア・ブラウン
編集:セリーヌ・アメスロン
VFX:ロバート・スコタック
美術監督:ローリー・ポスト
出演:シャニン・ソサモン、タイ・ルニャン、ウェイロン・ペイン、クリフ・デ・ヤング、ドミニク・スウェイン、ロブ・コラー、ファビオ・テスティ

© 2010 ROAD TO NOWHERE LLC

2011年/アメリカ/121分/カラー/ビスタサイズ/デジタル
配給:boid

『果てなき路』
オフィシャルサイト
http://www.mhellman.com/


※参考文献
「モンテ・ヘルマン語る 悪魔を憐れむ詩」
モンテ・ヘルマン 
聞き手:エマニュエル・ビュルドー
監修:樋口泰人
翻訳:松井宏
河出書房新社
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