『哭声/コクソン』

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一神教的価値観に対して、"映画"そのものを対峙させる、
ナ・ホンジンの怪作『哭声/コクソン』

上原輝樹

"人々は恐れおののき霊を見ていると思った。
そこでイエスは言った。なぜ心に疑いを持つのか。
私の手や足を見よ。まさに私だ。触れてみよ。このとおり肉も骨もある"

という「ルカによる福音書」24章からの引用を冒頭に示した本作は、次いで、川で魚を釣る男の姿を映し出し、壮大な虚構の開巻を告げる。実は、この福音書には続きがあって、復活の奇跡を俄には信じられない信者たちに向かってイエスは、「何か食べ物はあるか?」と聞き、彼らが魚を差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べてみせる。そして「幽霊は魚を食べない」と言う。つまり、引用の続きは、國村隼が演じる謎の男が魚を釣る場面として映像化され継続している。それをそのまま解釈すれば、この"謎の男"は、イエス的な何者かの表象である、ということになる。

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この"謎の男"が住み着いた村<コクソン>では、以来、原因不明の疫病が発生し、発症したものは身体に湿疹が現れ肌が爛れ、眼球が混濁する、やがて発狂し、家族を襲い死に至らしめる、、。韓国に実在するコクソン(谷城)の地では、かつて朝鮮戦争中に、山の北側にパルチザンが潜み、夜になると北の占領地となるが、昼になると南の占領下におかれた。昼夜で主が変わるために、どちらの見方についたかで、住民が殺される日々が続いた(※)のだという。本作の物語には、かつて、その地の人々を分断し、恐怖に陥れた疑心暗鬼の心、本物の感情がコアにあるということだろう。

映画は、川岸に佇む國村隼を捉えたショットの次に、本作の主人公である警官ジョング(クァク・ドウォン)の姿を捉えて映し出す。恰幅が良く、朗々とした佇まいが、見るものに安心感を与える。事件の知らせを受けて、本来であれば、すぐにでも駆けつけなければならないのだが、母親に捕まり、しっかりご飯ぐらい食べてから行きなさいと嗜められ、おぞおずと食卓につく、その様子には人好きのするユーモアが漂っている。しかし、たっぷり食事を取った後、事件現場に駆けつけた途端、映画は一変する。雨が激しく降り付ける、コクソンの地を濡らす風景描写が素晴らしい。

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既に村の全ての警察車両が駆けつけ、住民の怒声と哭き声が響く中、ジョングが雨に濡れながら田舎道を歩いて行くと、平屋の一軒家があり、そこには血みどろの男が呆然自失の有様で座っている。この男が発狂して、妻を惨殺したのだという。捜査に当たらなければならないジョングだが、目撃した情景のあまりのおぞましさに圧倒されてしまう。果たして、自分にこんなとんでもない事件の捜査が務まるのか?そう思ったのは本人だけではなく、観客もきっと同じ気持ちになるだろう。この一連の描写に、韓国映画ならではの暴力描写、怪奇描写の凄まじさの片鱗が早くも顔を覗かせており、この先一体どんな凄惨な事態が待ち受けているのかと見る者をたじろがせる。

案の定、魔の手は、ジョングの愛する一人娘にまで伸びて行き、ジョングは村を守るという警官としての職務を超えて、愛する娘を守るという、自らの存在理由を賭した闘いへと駆り立てられて行く。『エクソシスト』(73)のダミアンめいた悪魔憑きの様相を呈して行く娘の姿を見かねたジョングの母親は、藁にもすがるような気持ちで大枚を叩き、高名な祈祷師イルグァン(ファン・ジョンミン)を呼び寄せ、悪霊払いの盛大な儀式が執り行われることになる。この韓国の土俗的なポリリズムが炸裂する祈祷シーンがなかなかの見物だが、イルグァンを演じるファン・ジョンミンの人を喰った演技が絶妙で、この男は果たして本物なのか、イカサマ師なのか、見る者を疑心暗鬼の森の中に迷い込ませながら、時にはあまりに過激な暴力描写が、リアリズムを凌駕するスラップスティックなユーモアへと変質し、時ならぬ爆笑を誘うことすら起こりうるだろう。この映画の射程は、従来のジャンル映画の"枠"を、軽々と、というよりは、重量感のある足取りで逸脱していく。

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この悪霊と村人との闘いに、ジョングの親戚である若き神父も駆り出される。いずれ、忘れかけていた冒頭の聖書からの引用を、観客は今一度思い起こす必要に駆られるだろう。"謎の男"は、わざわざパスポートを見せるショットまで用意して、"日本人"であることが明示されるのだが、ジョングを始めとした村人たちは、この"日本人"こそが全ての元凶であると"疑う"。ある日、ジョングは村人を組織して、彼が住む山中の小屋を襲撃する。そこで、村人は、"日本人"の小屋の一室が、『羊たちの沈黙』(91)さながらの、被害者たちの写真が壁一面に張られ、持ち物が散乱した異様な光景を目撃することになる。いよいよ"疑い"を"確信"に変えた村人たちは暴徒化し、"日本人"を追いつめる。果たして、この男の正体は一体何者なのか?そして、ジョングの娘は救われるのか?もちろん、その結末にここで触れることはしないが、この映画は閉幕後に、見る者に更なる思考を促す。

ここで、冒頭の聖書からの引用が重要な役割を果たすことになる。つまり、イエスの復活を待望しながら、いざ復活したイエスを前にした信者たちは、その"事実"を信じることが出来ず、"疑い"を払拭出来ない。この"疑念"は、スコセッシの『沈黙』(16)においても探求された重要な主題のひとつだが、そこで描かれた答えのひとつは、そもそも人間とは"疑う"存在であるということだ。人は、イメージ、映像を見ただけでは、実在を信じることが出来ない。だから、イエスは"触れてみよ"と言ったのだという。確かに、"触れれば"、人は実在を信じることが出来るのかもしれない。では、"触れる"ことが出来ないものを、人は信じることが出来ないのだろうか?"思想"は触れることが出来るだろか?"映画<シネマ>"に、人は触れることが出来るだろうか?"真実"というものは、ひとつではなく、ある"枠"の中で定義されて、初めて見出され得るものだ。ナ・ホンジンは、だから、『哭声/コクソン』において、一神教であるキリスト教を相対化する装置として、その歴史が複数存在していることが自明であり、多元主義そのものである"映画"を対峙してみせる。そこに、"映画"という"枠"が死守されている限りにおいて、あの若い神父が目撃したものの信憑性は充分に担保されている。


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『哭声/コクソン』
英題:The Wailing

3月11日(土)より、シネマート新宿ほかにて公開
 
監督・脚本:ナ・ホンジン
撮影:ホン・ギョンピョ
編集:キム・ソンミン
プロダクション・デザイン:イ・フギョン
衣装デザイン:チェ・ギョンファ
音楽:チャン・ヨンギュ、タルパラン
出演:クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村準、チョン・ウヒ

© 2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION

2016年/韓国/156分/シネマスコープ/DCP5.1ch
配給:クロックワークス

『哭声/コクソン』
オフィシャルサイト
http://kokuson.com



























































※「キネマ旬報」3月上旬号
 ナ・ホンジン監督インタヴューより
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