『やさしい女』

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上原輝樹

「観客は、自分が何を欲しているかを知らない。君の意志、君の快楽を彼に押しつけてやれ。
ロベール・ブレッソン

ドストエフスキーの原作小説「やさしい女」には"幻想的な物語"というサブタイトルが付与されている。このことについて、ドストエフスキーは、読者への断わり書きとして「作者より」という文章を冒頭にしたためている。それを要約すると以下のようなものだ。

自殺してしまった妻の遺体を前に、夫はすっかり動転している。何故こんなことになってしまったのか?神経症的病質を持つ夫は、自分自身を相手に喋り続ける。夫は、知りうる限りのことを語り、自分自身に対して事件を明らかにしようと試みる。夫の思考と心は粗いものだが、一方で、そこには深い感情が表現されている。思考の渦の紆余曲折を経た挙句、終いにはこの不幸な男にも"真実"が明瞭に見えてくる。ここに書かれた小説は、この夫の語りの全てを速記者が書き留めたものである、という仮定のもとに存在するものであり、それ故に、この物語は"幻想的"と名付けられている。

もちろん、ブレッソンの『やさしい女』からは、そのサブタイトルは消えている。映画では、"幻想上の"速記者が記録する代わりに、カメラとレコーダーが全てを記録しており、すべての劇映画は、演出された虚像であることが一応の了解事項となっているから、今、スクリーンに映っている映像に関して、これは"幻想的な物語"です、とわざわざ断りを入れる必要がない。映画とは"幻想的な物語"そのものだからだ。

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映画は、60年代末、夜のネオンが明滅するパリの街を背景に、簡素なクレジットが表示されるオープニング映像で始まる。このオープニングが終わるや否や、観客は、ひとりの女性がベランダから飛び降り自殺を図ったであろうことを、行為そのものを捉えた映像ではなく、ベランダで倒れかけるテーブルと椅子、空中を舞う白いスカーフ、路上に集まってくる通行人の足元、といった断片的なカットの連なりから、起きた事態を推測することになる。この映画においては、観客は受け身でいることは許されず、ショットの連なりの総体を見出すべく、自らの思考を促されることになる。そして、映画が始まって暫くしたところで、観客は初めて人間の顔を捉えたショットを目にすることになる。ドミニク・サンダが演じる"女"が、後に"夫"となる男が経営する質屋に入ってくるショットだ。緑のコートを纏い、臙脂色(えんじいろ)のノートを抱えたドミニク・サンダ、その17才の凛とした佇まいをドキュメントしたショットの、何と美しいことか!

撮影監督は、『バルタザールどこへ行く』(66)、『少女ムシェット』(67)、そして本作と、ブレッソンとの仕事が続いた名撮影監督ギラン・クロケである。ギラン・クロケと言えば、ドゥミの『ロバと王女』(64)、『ロシュフォールの恋人たち』(67)、デュラスの『ナタリー・グランジェ』(72)、ポランスキーの『テス』(79)といった名作群の仕事で知られる名匠だが、ブレッソンとの繋がりで言えば、2010年に来日を果たしたアンヌ・ヴィアゼムスキーのメモワール「少女」の中で、"専制君主"ブレッソンに対して、当時まだ17歳だったヴィアゼムスキーの庇護者として振る舞い、その風貌からホッキョクグマのニックネームで親しまれていた挿話が"複雑"な想いと共に想起される。"複雑"というのは、文字通り少女だったヴィアゼムスキーが、『バルタザールどこへ行く』の撮影を通じて、ひとりの大人の女性へと成長を遂げていき、それに従って、ヴィアゼムスキーのクロケへの態度が変わってゆくさまが、そのメモワールに描かれているからだが、本作におけるドミニク・サンダもまた、蓮實重彦の惹句にある通り、まさに"少女"から"女"へと「艶かしく変貌してゆく」姿がギラン・クロケのカメラを通じて捉えられており、映画作家ロベール・ブレッソンの"業"の深さに感じ入ってしまう。その欲望があったからこそ、私たちはこうして17歳のドミニク・サンダとスクリーン上で出会う僥倖を得ている。

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一方、ドストエフスキーの原作小説で"神経症的"と描写される饒舌な夫は、本作においては、それほど奇異な男としては描かれていない。むしろ、"凡庸"だが、一見"普通"な感じすら抱かせるところに、男女の間に横たわる闇が、現代人の日常のあちらこちらに巣食っていることを強く印象づける。ギイ・フランジャンが演じる男は、質草を携えて店にやってきた彼女を見初め、口説き始める。女は、初めは、「すべてが無理」と言って男を拒絶し、取りつく島を与えないが、誠実そうに振る舞う男と結局は結ばれることになる。結婚当初は仲睦まじく見えた二人だったが、夫の金銭への執着から、互いの間に溝ができ、その隙間は埋め難い距離となって、二人を隔ててゆく。

原作では、女は映画よりも過酷な、19世紀サンクトペテルブルクの血なまぐささすら漂う境遇に身を置かれており、夫の傲慢や卑劣さによって自殺に追い込まれた経緯が、夫自らのパラノイア的口述によって克明に描かれるが、1960年代パリに舞台を移した本作において、事態は、よりフラットに、即物的に描かれるに留まっており、描写の中で蠢く感情的な熱量は極めて抑制されている。つまり、ブレッソンは、この男女の出会い、結婚のミスマッチにおける、ジェンダー的イシューを殊更取り立てて、どちらか一方を告発しようという気など毛頭なかったように思える。70年代のパリにウーマン・リブの嵐が吹き始める前夜、ただ、永遠に理解し合うことができない、一組の男女の姿がここには描かれている。

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ブレッソンが、『やさしい女』の物語を駆動するために用いた様々な装置、それは、夫の質屋が1階、書斎とリビング、寝室が2階にある、このアパートメント、そして、「結婚なんて、猿真似に過ぎない」と女が言う時に画面に映される動物園の檻、パリの市内を行き交い、アパートメントの周囲を囲う車の走行音、リビングのテレビから流れてくるカーレースや戦闘機の映像と音、といった具体的な装置の数々、そして、結婚という制度、更には、何よりもブレッソン的テーマである"お金(ラルジャン)"、そうした現代西欧文明のブルジョア的特質を形成する事象の「全てが」彼女にとっては「無理」なのであって、全ての装置が彼女を彼岸へと追いつめていく。彼女を追いつめた、現代社会の中で自動化された装置の数々の中にあって、その歯車のひとつに過ぎない"夫"の過失など、もはや極めて相対的なもののひとつに過ぎないように見える。

女は、質で得たお金は「本とノートのため」のものと言う。女は、男女関係のクリシェに抗って、摘んだばかりの腕一杯の花束を道端に捨て去り、「幸せにしてあげよう」という男の言葉に叛旗を翻す。金に執着する夫に対して、「もっと大きなもの」を欲しているのだと言う彼女は、浮気を試みることも辞さない。自然史博物館に行けば、様々な動物の骨格の標本を見て、「動物は全て同じ、背骨が違うだけ」と強かな観察眼を披露し、シェイクスピアの「ハムレット」を観れば、戯曲で割愛された原作個所を的確に指摘して見せる。そして、夫の前でかけるレコードは、パーセルの「来たれ、汝ら芸術の子よ」である。知性の働きにおいて、圧倒的に夫を制する女は、あの決定的な風呂場のシーンを以て、夫との主従関係の逆転を永遠のものとする。彼女が落とした石鹸を拾わされる夫は、浴槽から差し出された、その美しい濡れた素足に触れることすら許されない。後に展開される、ギイ・フランジャンがドミニク・サンダの脚に縋り付くシーンの布石となる秀逸なシークエンスだ。この夫が降参してしまう一連の流れは、原作において、彼女が歩く床に口付けまでして、彼女を崇拝し始める一連の描写の大胆かつ繊細な翻案として、既に手が届かないところへと離れてしまった女への、狂おしいばかりの、倒錯的なまでの愛情表現とエロティシズムが溢れ出る本作の白眉だ。

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彼女の心が離れてしまって以降、妻が生きている時でも、夫が嫉妬を募らせ触れる事もままならなかった彼女の足は、今、ストッキングを履いて、ものも言わずに、男の前に横たわっている。「もっと大きなもの」を欲し、"芸術の子"であった彼女にとって、夫との家庭は逃げ場のない檻のようなものだったのだろうか。彼女は、「もっと大きな」不可視なものに導かれるかのように、十字架に触れ、夫も、お金も、家も、車も、戦闘機もない世界へ旅立ってしまったが、私たちには、この『やさしい女』という、反逆児そのものの芸術作品が残された。この数年後にニューヨークで生まれた「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」のアルバムと共に、ブレッソンが"反映画=シネマトグラフ"のエクリチュールを用いて創造した『やさしい女』のドミニク・サンダの物言わぬ眼差しと足は、現実を浸食する"幻想的な物語"そのものとして、現実に在り続け、"芸術の子"を孕み続けるだろう。


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Comment(3)

Posted by PineWood | 2015.11.07

昨日、ドイツ映画の新作ドキュメンタリー(ファスビンダー)を見て、ファスビンダー監督が生前にドラマチックな台詞を抑える事が演出のポイントだと答えるシーンがありました。その時思い浮かべたのはロベルト・ロッセリーニ監督の作品であり、ロベール・ブレッソンの映画の事でした。今回、池袋新文芸座でブレッソン監督の代表の2作の上映あって駆けつけ、TV nの深夜放送で一部分しか見ていなかった(ラルジャン)と併せて見ました。それも、ジャン・ルノワールの(ピクニック)の予告編を見た後の上映なので至福の番組!(ラルジャン)は兎に角最小限の説明で或は説明無しにお金を巡るオムニバス映画風に物語展開する見事さ、(やさしい女)も最小限の説明で簡潔で抑えたスタイル。これはファスビンダー監督の目指した映画演出であり、観客が想像力を巡らす余地の大きい映画の醍醐味なのだろうと思った次第。削りに削って作品をパズルのように構築する作家性 があったが、TVで途中から見たときは難解で不可解でしたが、映画館で見てスタイルに魅せられました。贋札の被害者が農民一家殺人という加害者に為る顛末、その青年が(やさしい女)では映画館でドミニク・サンダの横に座って誘惑する若い天使或は悪魔として登場する!女学生がお金を愛さない可愛くない女として悪魔のような女に変身する時に自殺に追い込んだ夫の告白は懺悔の形をとるのだがー。夫のそんな証言でさえも、家政婦の眼差しと共に実に怪しく不可解なものである。
ストローブ=ユイレの映画作品の、テキストの朗読劇や寓話風に只暗示されたにとどまる人物像から内容を汲み取る時の困難さと味わいに似たものも感じられる。ブレッソン作品のアンチ映画としての非ストーリー性、即物性から感じられるのは、セザンヌの静物画、風景画、人物画のもつ強固な構築性・堅牢さと言えるのかも知れない。

Posted by PineWood | 2015.09.26

名画座で再度観てドミニク・サンダの美に圧倒された。パリの映画館ではシェークスピアの(ロミオとジュリエット)ゼッフェレリ監督版もかかっている。男女のスレ違いの悲劇を予感させるー。学生のドミニクと人妻の彼女の変容が夫の残酷なまでの優しさと対比される。重力が垂直に彼女を落下或は飛翔させた。必然?眠れる美女は安らかに眠り続けた。死を生きているごとく、ミステリアスに微笑んで…。

Posted by PineWood | 2015.08.22

ロベール・ブレッソン監督の(美しい女)は、やはりドフトエフスキー原作の(白夜)とも共通するある重力を感じさせる。前者の冒頭での机などの物体が垂直に落下するシーン、後者では主人公の青年がパリの公園で一回でんぐり返しをうって回転するシーンなど。一切の説明もないし、後者ではドフトエフスキー原作のもつ建物が繰り広げる怪奇で幻想的な彩りの表現主義のタッチも無い!前者だは、ドミニク・サンダはスリーピング・ビューテイとして目の前のあるのみで、男の回想の中でのみ美神、愛憎、嫉妬の対象として生きる…、後者でも片想いの対象としてのみ主人公の青年のイメージの中で生きる…。月光に照らされた後ろ姿は一瞬の輝きを放った。決して届かない前者のバスルームでの脚線美とも重なる。
他方でブレッソン監督の即物的なスタイルは小津安二郎監督の作品にも似た喜劇性を孕む。前者のオートレースの番組を掛けながらの初夜のベットシーンなどどこか健康的で可笑しい!!フランソワ・トリュフォー監督の(わたくしように美しい娘)とかスタンリー・キューブリック監督の(時計仕掛けのオレンジ)のベットシーンの如く…。映画の描く真実は残酷でいて滑稽なのかも知れない。

『やさしい女』
原題:Une femme douce

4月4日(土)より、新宿武蔵野館他全国順次公開
 
監督・脚色・脚本・台詞:ロベール・ブレッソン
製作:マグ・ボダール
原作:フョードル・ドストエフスキー
撮影:ギスラン・クロケ
美術:ピエール・シャルボニエ
出演:ドミニク・サンダ、ギイ・フライジャン、ジャン・ロブレ

1969年/フランス/カラー/DCP/ヴィスタ/89分
配給:コピアポア・フィルム

『やさしい女』
オフィシャルサイト
http://mermaidfilms.co.jp/
yasashii2015/
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