『おとなのけんか』

上原輝樹
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はっきり言って、真面目に文章で紹介するのが馬鹿らしくなるほど面白い映画である。映画は、開けっぴろげの晴天の下、芝生の緑も目に鮮やかな公園で起きる子どもたちの諍いから始まる。諍いの情勢は、1対多勢の対決となっており、一人の子どもが長い木の枝のようなものを持っている。いよいよ、多勢に押されつつあった彼は、そこでブンっと細い木の枝を振りまわした。木の枝は、多勢の先頭にいた少年の顔に当たったようだ。

この"子どものけんか"の和解のために、加害者少年の両親、弁護士のアラン(クリストフ・ヴァルツ)と投資ブローカーである妻ナンシー(ケイト・ウィンスレット)が、被害者少年の両親、金物店を営むマイケル(ジョン・C・ライリー)とライターである妻ペネロペ(ジョディー・フォスター)が住まう、今やトレンディーなエリアとして知られる、ブルックリンのお洒落なアパートメントを訪ねる。

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初めは、社交的な物腰でお互いの立場を尊重しあいながら、"和解"に努めた彼らだったが、ひっきりなしにかかってくる携帯電話を受け、仕事の会話に勤しむ敏腕弁護士アランが、その場の空気を険悪なものに変えていく。まず、このアランを演じるクリストフ・ヴァルツが痛快、緊張感に満ちた一座の中で、傍若無人に振る舞うさまは、当事者たちを居たたまれない気持ちに追い込むが、映画を観るものの爆笑を誘う。

妻のナンシーを演じるケイト・ウィンスレットは、決めるところで大胆に決めてくれる。何をどう決めるかは、ここでは触れまい。彼女は4人のアンサンブル・キャストの中で最もリスクを負った役柄を演じており、その勇気は褒め讃えられるべきだろう。『タイタニック』(97)の最後で、レオを押しのけて生き延びただけのことはある。この図太さが彼女の最大の魅力であると言っても過言ではない。

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一座の場が険悪の度合いを増すに従って、それぞれの本性が露になっていく。ジョン・C・ライリーが演じるマイケルは、基本的にはものわかりの良い、太っ腹な商店主ではあるが、"男の人生は顔に出る"の言にならって彼の貌つきを見ればわかると言ってしまっていいだろうか、一皮むけば、一昔前のヒルビリー的ホモソーシャルな連帯感を"新自由主義"の権化のようなアランに対して示しはじめ、妻のペネロペと敵対していく。NYのブローウエイで上演された劇場版ではこのマイケル役をジョン・ガンドルフィーニが演じたということだから、ブローウエイ版もさぞかし見物(みもの)だったに違いない。

映画の作り手であれば、誰もが羨みそうな、素晴らしいアンサンブル・キャストの中で最も異彩を放っているのが、ペネロペを演じるジョディー・フォスターである。"子どものけんか"をおとなが和解に導こうと集まって議論を重ねる内に、子育ての問題やペットの扱いに関する問題まで噴出し、味方であった夫婦同士がお互いを攻撃し合う"おとなのけんか"に発展するプロセスの中で、各人が傷を負っていくが、その傷の大きさは一様ではない。

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登場間際から、無礼を働く辣腕弁護士アランは、初めから他者に何も期待していないから自分を装っていない分、場が荒れても追う傷が少ない。だから、観客も彼の無礼や失礼な率直さを人ごとのように笑うことができる。一方、アフリカの貧困問題や暴力の現状に精通したライターであり、フランシス・ベイコンやフジタ(藤田嗣治)をこよなく愛する、4人の中でも最も"リベラル"な思想の持ち主であるペネロペが負うことになる傷は大きい。

そもそもペネロペはちょっとしたミスで出端を挫かれてしまう。映画冒頭、けんかの報告書をまとめるにあたって、自分の子どもに利するよう、少し表現を誇張してしまうのだ。「少年が木の枝で顔を叩いた」と書けば良いところを「武装した<armed>少年が木の枝で顔を叩いた」と記述し、これを目敏く見つけたアランがすぐさま指摘、"武装した<armed>"の部分は削除されることになる。ペネロペが犯したこの無意識に近い"誇張"は、世界を"寛大さ"や"鷹揚さ"から遠ざける、些細だけれども、ちょっと"笑えない"ミスだった。

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誰よりも、顔の皮を張りつめた作り笑いでゲストを迎え、誰よりも"正しくあること"に執着を見せるペネロペだからこそ、相手の"子ども"が犯したヤンチャな行為を誰よりも許せないのに違いないが、彼女はその"子どもじみた正義感"を隠しつつ大人の作法で相手を"罰したい"わけだから、<ゲームの規則>に反する、このちょっとしたミスの"陰湿さ"は根が深い。この極めて洗練されたコメディの陰の"原動力"になっているのは、彼女の内面に宿る"子どもじみた正義感"を駆動する"陰湿さ"であるのかもしれない。

そうして顔を引きつらせて異彩を放つジョディー・フォスターを、『戦場のピアニスト』(02)以来、ポランスキー作品の撮影監督を努めるパヴェエル・エデルマンのキャメラが、まるで不条理劇やノワール・フィルムを撮るかのようなアングルと構図でフィルムに収めていく。ジョディー・フォスターだけを観ていれば、彼女はまるで『死と処女』(94)のシガニー・ウィーバーのように、表情を強ばらせている。その彼女が作り出す笑い事じゃないのよ!という"緊張感"こそが、この場の"笑ってはいけない"雰囲気を作り出し、笑いを生み出すポテンシャルを上げている。丁度、お葬式などの緊張を強いる場がそうであるように。

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もちろん、彼らの素晴らしいパフォーマンスを支えるのが、コッポラ監督作品で知られるプロダクション・デザイナーの大御所、ディーン・タヴォウラリスが創り上げたアパートメントの瀟酒なインテリアであることは、画面を観れば一目瞭然だが、リアルな時間の推移を自然光を取り込むことで表現したエリセの『マルメロの陽光』(92)やワン・ビンの『鳳鳴―中国の記憶』(07)の場合と同じベクトルの発想で、室内セットから臨む窓の外の光景や、室内への自然光を模した光の変化を、人工的な照明で表現した、79分間の"リアルタイム進行劇"の映画ならではのこだわりも大いに楽しみたい。


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『おとなのけんか』
原題:Carnage

2月18日(土)より、TOHOシネマズ シャンテ他にて全国順次ロードショー
 
監督・脚本・共同製作:ロマン・ポランスキー
脚本:ヤスミナ・レザ
製作:サイド・ベン・サイド
編集:エルヴァ・ド・ルーズ
撮影監督:パヴェエル・エデルマン
プロダクション・デザイン:ディーン・タヴォウラリス
衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ
出演:ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー

2011年/フランス、ドイツ、ポーランド/79分/カラー
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

『おとなのけんか』
オフィシャルサイト
http://www.otonanokenka.jp/
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