『毛皮のヴィーナス』

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上原輝樹

うらびれた劇場で演出家トマ(マチュー・アマルリック)が不満を爆発させている。ザッヘル=マゾッホの小説「毛皮のヴィーナス」に材を得た、自らの脚色作品の演出を手掛けるトマは、オーディションで何十人もの女優と会ったが、主演のワンダ役に相応しい女優とついに出会うことが出来なかったからだ。トマが、諦めて帰り支度を始めると、劇場の扉を叩くものがあり、雨でびしょ濡れになった金髪の女(エマニュエル・セニエ)がズカズカと入り込んでくる。せっかく来たのだからオーディションをしてほしいと嘆願するその女の名は、奇しくも、主役と同じワンダだと言う。

一見すると、トマが求める"ワンダ"らしい高貴さや優雅さからはかけ離れた、不躾で粗野な気配すら漂わせていたワンダだが、何とかオーディションに漕ぎ着けて、トマを相手役"セヴェリン"の代役として本読みを始めると事態は一変した。役がほしいだけの三流女優のように見えていた女はいつの間にか姿を消し、そこには"貴婦人"のように振る舞う"ワンダ"がいたのだ。ワンダの演技に圧倒されたトマは、いつしか自らが脚色した"女主人と奴隷"の世界に入り込み、奴隷の"セヴェリン"そのもののように見えてくる。物語が進行するに従って、ワンダと"ワンダ"を往来しながら、美しさを纏った妖気を力強く発散していくエマニュエル・セニエと、トマと"セヴェリン"を往来しながら奴隷の身分に堕ち行く中、目を爛々と輝かせ、息づかいを荒くしていくマチュー・アマルリック、二人の名優の演技が目を見張るばかりに見事だ。

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しかし、ポランスキーの関心は、『赤い航路』(92)の時の性的冒険にまつわる物語を語ること(描くこと)、それ自体よりも、俳優の演技を見ること、演出すること(捉えること)により傾注しているように見える。それは、本作が前作『おとなのけんか』(11)に続く舞台脚色ものであることとも密接に関係しているはずだが、結果として、ナラティブにおける主観的視点(描くこと)から客観的視点(捉えること)への移行が、ユーモアの獲得という点において、最大の効果を得ているように思える。『ナインス・ゲート』(99)の時に作品を支配していた正体不明のオカルティズムは、本作においては、その時と同じように踊るエマニュエル・セニエのダンスによって、滑稽な程に脱構築され、呪いの雲が晴れたように淀み無く、エンディングの牧歌的な"ヴィーナス賛美"へと反転していく。『戦場のピアニスト』(02)以降に獲得されたポランスキーの明晰さが本作でも健在だ。

警察署長を父に持ち、「農耕的共同体の組織、そしてオーストリアの官僚機構と、とりわけ地方の地主に対する農民の二重の闘争」を企図した「汎スラブ主義」者であり、「小ロシアのツルゲーネフ」とも呼ばれた小説家ザッヘル=マゾッホには「愛から「性的素質を奪う」と同時に、人類の歴史の総体を性的なものにする非常に特殊なやり方がそなわっている」(※)とドゥルーズが指摘している通り、トマが劇中でマゾッホの作品「毛皮のヴィーナス」を賞賛すること自体は、"劇作家"としては極めて妥当な行為であるはずだ。

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それでも、クラフト=エビンクが「変態性病理学」において一倒錯症状の指示にその名を用いて以来、老若男女が生息する都市であれば、世界中どこでも<サドマゾ=SM>という言葉が性風俗の一端や人間の性質を表現する傾向としてあまねく認知されるに至ったように思える現代において、とりわけ、男性が欲望する "マゾヒズム"的行為は、所詮、女性を客体化する男性の性的欲望のひとつに過ぎないのではないかという疑念が生じるのは当然のことだろう。

本作がそうした通俗性を超えた現代性を獲得しているように見えるのは、まさにそうした疑念に基づいて、エマニュエル・セニエ扮する"ワンダ"がトマに浴びせかけるマゾッホ批判の中に、21世紀のフェミニズム的視点が浮き彫りにされているからに他ならない。そこまで遠回りして初めて、マチュー・アマルリック扮する演出家トマが、"ワンダ"が繰り出す手練主管にひたすら翻弄されるしかないというマゾヒズム的構図が完成し、「愛から「性的素質を奪う」」ザッヘル=マゾッホ本来の慇懃な遠謀深慮に映画が肉薄する。

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女性視点を欠いた一方的な女性崇拝のエゴイズムが嘲笑される完全犯罪的シナリオが見事な本作だが、最後に牧歌的な"ヴィーナス賛美"を展開することで、ヴィーナスに"毛皮"を着せてしまい「愛から「性的素質を奪った」」ザッヘル=マゾッホ、その人への批判を孕んでいるようにも見えるところも興味深い。しかし、それがポランスキーの本意なのか、あるいは、牧歌的な女性の肉体美賞賛を偽装しているだけなのかは、判断がつきかねる。マゾヒスト的悦楽の境地を見事に演じているマチュー・アマルリックの外見が、あまりにもロマン・ポランスキー監督のそれと似ていて、『ミュンヘン』(05)撮影時に、そのことをスピルバーグに指摘され、本人を紹介されたというエピソードをプレスシートの監督インタヴューで知るにつけ、意識的に自分に似ている俳優をこの役に抜擢していることが明らかであることからも、偽装の疑いは強まるばかりなのだが。映画は、いつでもこの現実と虚構の間(あわい)にあって、私たちの手をすり抜けていく。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.05

ロマン・ポランスキー監督と演出家役のマチュー・アマリックとの風貌の相似は、自伝的な(大人は判ってくれない)で若き長篇劇映画デビューを飾ったフランソファ・トリュフォー監督とアントワーネ・ドワネル役の少年ジャン・ピエール・レオとの相似にも見られるものである。映画の中の髪形や服装がそういった似姿を強調しているのだろう。ビーナス役をポランスキー監督の妻が演じているということもいっそうアマリックをポランスキーに接近させるし、貞節なイブに変貌した姿はポランスキー監督の文芸大作(テス)のナスターシャ・キンスキーなどの伝統的な美形 であろうか。
冒頭から劇場に目眩く導入される流麗なカメラワークはイニャリトウ監督の映画(バードマン)へと継続される事だろう!!

『毛皮のヴィーナス』
原題:VENUS IN FUR

12月20日(土)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、全国公開
 
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、デヴィッド・アイヴス
音楽:アレクサンドル・デスプラ
撮影:パヴェル・エデルマン
出演:エマニュエル・セニエ、マチュー・アマルリック

© 2013 R.P PRODUCTIONS - MONOLITH FILMS

2013年/フランス、ポーランド/96分/シネマスコープ/5.1ch
提供・配給:ショウゲート

『毛皮のヴィーナス』
オフィシャルサイト
http://kegawa-venus.com






























































































※「」内の引用は全て『マゾッホとサド』(ジル・ドゥルーズ、蓮實重彦訳)より
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