『ランニング・オン・エンプティ』

鍛冶紀子
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最初に感じたのは親近感。やがてむなしさに襲われ、終いにはただぼんやりとスクリーンを観るばかりだった。平和ボケと言われるこの国における若者たちの日々は、こうも無意味で、こうも空っぽなのか。

半ば呆れるとともに、自分は登場人物たちとは違う!と言い切れるだろうか?という疑問も。ハッキリ「違う」と言いたいが、その根拠はなにかと問われると黙り込んでしまいそうだ。ちゃんと仕事をしているから?社会に適応しているから?道徳的だから?年上だから?どれも言い訳にしか響かず、むしろ自分の奥底にも彼らと同じ「空っぽ」があるのではないかという想いに囚われる。コメディ要素に満ちた作品であるにも関わらず、終映後そんな怯えに似た気持ちを抱いてしまった。

本作の要となる「空っぽ感」は、若手監督だからこそ切り取れた現代性と言っていいだろう。それを軽味で包んでいるところが、二重に現代性を帯びている。

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簡単に言うと、ダメな男たちとダメな女の話だ。主人公のヒデジは身の入らないままバンドを続けている男。彼女が借金取りに拉致されたと聞いても「マジでぇ?」と繰り返すばかりで何一つ手を打たず、家で発泡酒片手にマンガ雑誌を読みダラダラしている。働かないからお金もない。いざ「金が必要」となると、非常識な辞め方をしたバイト先にまでお金を借りにいく始末。普通ならば顔を出すのもはばかられるであろうに。彼のバンド仲間も然り。日中から男三人喫茶店でダラダラしている。と、ここまでは表層的なダメっぷりなのだが、真にダメなのは、それに焦りを感じる訳でもなく、停滞していることに悩むでもない、まさに空っぽと言っていい彼らの無気力ぶりなのだ。

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ヒデジと同棲するアザミは、彼のダメっぷりに半ギレ状態。今まで貸したお金を取り戻そうと、狂言誘拐を企てる。しかしその短絡的なことといったらこの上ない。しかも、実行にあたって自分が努力することは何一つ無く、後輩の田辺をネコナデ声で操るだけ。

登場人物の中で、唯一ダメでなさそうなのがヒデジの兄の祐一。ちゃんと仕事もしているようだし、洋服も着替える(他の人たちはずっと同じ洋服なのだ)。しかし。他の人物たちとは違ったベクトルで様子がおかしい。異常なまでの筋トレへの執着。弟に対する屈折した感情。そのジメッと苦悩する姿は、カラリと空っぽな登場人物たちの中で一層際立つ。だが、ジメッとした苦悩もまた、行き場が無いという意味において、空っぽと同意義だろう。つまり、祐一はダメではないかもしれないが、空っぽという点では他の人たちと同じなのだ。

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後半、ストーリーはただの狂言誘拐から少しずつ態を変えていく。祐一のヒデジへの嫌悪の理由が明らかになり、家族の関係が少しずつ浮かび上がる。そして、始終ベッドの上にいたアザミはついにベッドを離れて走り出し、ヒデジはなぜか不自由になった片足を引きずりながら彼女を追う。ホトホト呆れざるを得ないこのバカップルぶりに辟易していると、物語はその隙を突くようにして終わりを迎える。無気力に停滞する彼らにはない圧倒的な暴力性が、外界から突然侵入してくるのだ。

ラストシーン。祐一の車のフロントガラス越しに、朝日が昇るのが見える。本来であれば希望の象徴となる朝日だが、本作においては朝日によってむなしさが助長される。一過的にノイジィな世界を抜け出したとして、どこかへ着けば結局日々は日常になっていく。静寂の夜は去り、またノイズに満ちた一日が始まるのだ。空っぽを埋める術を、私たちは知らない。だから、場所を変えても何をしても、空っぽは永遠に空っぽなのだ。違うだろうか?


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『ランニング・オン・エンプティ』

2月20日(土)より池袋シネマ・ロサにてレイトショー

監督:佐向大
エグゼクティブプロデューサー:小田泰之
プロデューサー:大野敦子
脚本:佐向大、小田泰之
撮影:月永雄太
録音・効果・整音:高田伸也
助監督:菊地健雄
出演:小林且弥、みひろ、大西信満、杉山彦々、伊達建士、村上和優、中津川朋広、池田わたる、関谷彩花、遠藤孝夫、角替和枝、大杉漣、菅田俊

2009年/日本/80分/ビスタサイズ
製作・配給:アムモ

© 2009 アムモ

『ランニング・オン・エンプティ』
オフィシャルサイト
http://roe-movie.com/index.html
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