『SOMEWHERE』

上原輝樹
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『マリー・アントワネット』での馬車の走らせ方はあまりにも映画的にマズかったと反省したかのように、左から右へ駆け抜けてゆくフェラーリのエンジン音で始まるソフィア・コッポラの新作『SOMEWHERE』は、画面右へ消え去ったかと思ったフェラーリが今度は1周してまた左から右へ疾走して消えていく、そしてもう1周、さらにもう1周、、、という感じでミニマムに反復を繰り返し、いつものソフィアの映画が始まったことを雄弁に告げる。やはりソフィアはそんなことを反省するタマではなかったかと、半分ズッコケながも嬉しくなる。

coppola_02.jpgパッと見たところ「iichiko」のポスターかと見紛う静寂に満ちたプールサイドに寝そべる父と娘の宣伝ビジュアルが印象的な『SOMEWHERE』は、タランティーノが審査委員長を務めた第67回ヴェネチア国際映画祭の歴とした金獅子賞受賞作品である。なんだ審査委員長はソフィアの元カレか、などと人づてに聴いたゴシップで金獅子賞を揶揄してはいけない。本当はいけないのだけれども、本作の約半分を占めるのが、そうしたハリウッド映画業界の内輪ネタである。しかも、父フランシス・フォード・コッポラの娘として、自らが経験した子供時代の記憶を脚本に反映しているのだから、これ以上リアルな話はない。とはいえ、実際に起きた事を映画に写しかえているはずもなく、『冬の小鳥』のウニー・ルコント監督が私達のインタヴューで語ってくれた言葉を引用すれば、こういうことだろう。

「私が本当に愛し、喪失したのは父だった。私はその気持ち、つまり感情を映画に移植した」

21世紀は、20世紀に家父長的に振る舞うことで、あるいは、振る舞う事が出来ないことで家族のものを抑圧してきた父親たちに対する、子供たちからの異議申し立ての映画の時代であると言って良いかもしれない。そうした映画は今思いつくだけでも、厳格な親に対して子供たちが陰謀を巡らせるハネケの『白いリボン』、離婚せざるを得なくなった両親に対する子供たちのファンタスティックな反乱が描かれる諏訪敦彦とイポリット・ジラルド共同監督による『ユキとニナ』、不甲斐ない父親に対してやりきれない暴力を爆発させるヤン・イクチュン監督の『息もできない』といった、子供たちの親に対する沸点を超えた振る舞いを描いた優れた作品群が思い浮かぶ。

たしかにこうした作品群で描かれた父親像と米映画界最後の巨匠フランシス・フォード・コッポラの場合とでは事情が全く違っている。実際、ソフィアの境遇を羨む人は山ほどいるのだろうし、比較をすれば彼女はあまりにも恵まれ過ぎているとすら言えるのかもしれない。しかし、『ヴァージン・スーサイズ』、『ロスト・イン・トランスレーション』、『マリー・アントワネット』全てに共通して漂っていた喪失感は一体何だろうか?彼女はその答えを、自らの子供時代を振り返るという体験を通じて、世界に問うている。一人の映画作家が出来る事として、これ以上誠実な問い掛けがあるだろうか?リアリズム、ではない。だから、ソフィアが描く父親像は、やはりソフィア流オフビートに洗練されている。
 
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映画俳優の父親ジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)は、ハリウッドの伝説的なホテル"シャトー・モーマント"に定宿し、退嬰的な女遊びとなし崩し的に日常化したパーティーに無為に明け暮れる日々を過している。そんな、ある日、離婚した妻との間に授かった娘クレオ(エル・ファニング)がやってきて、夜まで彼女を預かることになる。時代が違えば、(折しも日本で再発される)80年代末日本のサブカルチャーシーンを賑わしたケネス・アンガーの劇薬本「ハリウッド・バビロン」で暴露されたスキャンダラスなセックス、ドラッグ&マーダーな世界すら展開したかもしれないテーマでありながらも、ソフィア・コッポラの映画でそのような事態に至るはずもなく、11歳のクレオのアイス・スケートのレッスンに付き合うことになったジョニーは、あまりに可憐で美しい彼女のスケーティングに目を奪われることになる。ガス・ヴァン・サント作品の撮影で知られるハリス・サヴィデスのキャメラが捉えるエル・ファニングの妖精のような身のこなしに真っ先に夢心地になるのは、しばらくはスマートフォンに目をやるなど所在なげだった父親のジョニーよりも、観客である私達の方が先だったかもしれないが、この時を境にジョニーの心境に微妙な変化が現れる。

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「ハリウッド・バビロン」というよりは『ヒート』等のウォーホル映画的退屈と頽廃に彩られた日常を過していたジョニーは、娘のクレアと一緒の時間を過すことによって、映画産業の中で歯車的ルーティーンワークに埋没していく非人間的な自分の生活に強い違和感を抱いていく。ソフィア・コッポラは、クレアの孤独を直接的に描くことは最小限に留め、父ジョニーの充足感の欠落を描くことで、あるべきパズルのピースの不在として、一緒に居ることが出来なかった長き不在の時間を浮き上がらせる。その間接性こそがソフィアの映画の持ちうる力であり、洗練であると思う。そんな"ソフィアの迂回"にいつもより沿うPhoenixの音楽が彼女の映画をプライベートな感覚で暖かく包み込んでいる。

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やがて、映画産業の歯車から抜け出す決意を示すジョニーの姿に、本作の製作総指揮を務めたフランシス・フォード・コッポラの姿がどうしても重なって見える。常にハリウッドのメジャースタジオと闘いながら映画を作ってきたフランシスが、1997年の『レインメーカー』以来10年振りにメガホンを取った2007年の傑作『コッポラの胡蝶の夢』を、自ら製作費を捻出しやりたいように作ったのは、娘ソフィアの映画製作のやり方に大いに刺激を受けたからだと語っていたことを今一度思い起こしてほしい。そんな父親の姿を見ながら、ソフィアは、自らの子供時代の孤独をフィクションに昇華しただけではなく、彼女なりの"家族"のポートレイトを描き、未来へと繋がる希望の予兆で映画を満たしている。フランシスの最高傑作『ゴッドファーザー』が、何よりも"家族"の絆と崩壊を描いた映画であったことを思えば、やはり、"血"は争えない、のである。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.11.04

何処かに透明感のあるタッチで父を振り返った自伝的な要素は映画(ロスト・イン・トランスレーション)の中年男優の視点の延長或は裏返しなのかも知れない。昨日、オーソン・ウエルズ監督特集で見たニッカウヰスキーのCFがロスト・イン でのウヰスキー広告と似ていて可笑しかったがー。ソフィアの偉大な父コッポラへのオマージュと人生の虚無感滲み出ていて泪が出てきた…。フェリーニの8 1/2 のような父の心境を娘の視座で映し出した。男は冒頭のシーンのように車を降りると人生の宛の無い旅へ。何処へ?娘の気持ちを父の思い出の中に、それも至福の時間に溶かし込むー。

『SOMEWHERE』
原題:SOMEWHERE

4月2日(土)新宿ピカデリーほか全国ロードショー
 
監督・脚本:ソフィア・コッポラ
製作:G・マック・ブラウン、ローマン・コッポラ、ソフィア・コッポラ
製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ、ポール・ラッサム、フレッド・ルース
撮影監督:ハリス・サヴィデス
プロダクション・デザイン:アン・ロス
編集:サラア・フラック
衣装デザイン:ステイシー・バタット
音楽:フェニックス
出演:スティーヴン・ドーフ、エル・ファニング、クリス・ポンティアス

© 2010 - Somewhere LLC

2010年/アメリカ/98分/カラー/ビスタ/ドルビーSR・SRD
配給:東北新社

『SOMEWHERE』
オフィシャルサイト
http://www.somewhere-movie.jp/
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