『英国王のスピーチ』

上原輝樹
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『英国王のスピーチ』というタイトルに相応しい格調の高さを持った始まり方であるかどうかはともかく、誰がしかの口から発せられた"言葉"ではなく、王室で働く一員に過ぎない男がガラガラガラと喉を鳴らしてうがいをする"ノイズ"で始まる本作冒頭のシーンは、何はともあれ、英国特有の乾いたユーモアのセンスに満ちた映画が始まったことを雄弁に告げ、英国王室と大英帝国の偉大なる歴史について左程詳しい知識を持たない私のような者でも、やんごとなき"イギリス王室"にお近づきになれそうだという気配を濃厚に漂わせ観るものを武装解除する。

皇太子の弟として映画に登場するジョージ(コリン・ファース)は、内気な性格の持ち主で幼い頃から吃音に悩まされているが、父親であるジョージ五世(マイケル・ガンボン)は、「昔の王は見目麗しく馬上に股がっていれば良かったが、今やそうはいかない。王室は今や役者稼業に成り果て、国民の歓心を買わなければ食っていけない時代になってしまった。」と、現代の英国王室を取り巻く状況をも想起させる台詞を発しつつ、強引に鍛え上げることで何事も克服できるはずという前時代的精神論から、ジョージに国民の面前で"スピーチ"をする機会をことあるごとに与えようとする。正装してシルクハットを被った立派な体躯の公爵が、大勢の聴衆の前に立ち、幾つかの単語を発したと思ったら、すぐに言葉に詰まりその先に進めなくなってしまう。内容に関しては既に暗記して知り尽くしているはずのスピーチ原稿を発話することができない。初めは、どうしたことか?と訝りヨーク公を見つめる国民の眼差しも、やがて諦めの表情に変わり視線を落としていき、居たたまれない風情でイギリスの空の色のように曇っていく。すぐ隣で彼を見つめるヨーク公夫人エリザベス(ヘレン・ボナム=カーター)の目にはうっすらと涙が浮かぶ。この間、僅か5分程度だろうか?このたった5分の冒頭シークエンスは、その完成度の高さで観客の心を鷲掴みにするだろう。

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二人の幼い娘のもとへ帰ったジョージは、子どもたちからお話を聞かせてよとせがまれ、どもりながら、お話よりもペンギンさんの物真似だよ、と言って膝をついてヨチヨチ歩きだす、その姿が可笑しくも涙を誘う。それから、"お話"をどもりながらも懸命に聞かせてやるが、吃音の為に妙な間が出来、娘から話の内容について突っ込まれたりしながらも、何とか"お話"を最後まで聞かせてやる。我が娘に"お話"を聞かせてあげるだけでもホウホウの態のジョージをエリザベスが優しく見つめる。冒頭のうがい音のユーモラスな開巻から、緊張感漲る国民の面前でのスピーチ・シーン、そして、子どもたちとの心温まる交流のシーンへと見事なコントラストを構成するエピソードを繋げ、それらを横で見つめるエリザベスの愛情に満ちた視線が"王室"という境遇にあって、吃音を克服できないジョージが抱える困難の大きさを的確に物語る。

見かねたエリザベスは、何人もの言語聴覚士をあてがうが、ジョージの吃音は一向に改善しない。そんな一連の治療の中で出会ったのが、オーストラリア人のスピーチ矯正専門家ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)だった。うがい音のノイズと共に開巻したこの映画に相応しく、ライオネル自らがその姿を現す前に、先ずトイレを流す音(ノイズ)が聞こえくるだろう。そして、その後にツイードのスーツを着た型破りな"一般市民"ライオネルが登場する。ここでも、"画"に先んじて"音"が登場する。それは、本作の時代設定、1920〜30年代という時代が未だ映像の時代ではなく、ラジオの時代であったということ、それ故に、"スピーチ"の重要性は現代よりも遥かに重い、その事をさり気ないシーン描写の中で積み上げ、物語性を高めていくトム・フーパー監督の演出手腕に観客は安心しきって、身を委ねていくだろう。

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吃音は心の問題だと考えるライオネルは、ジョージの内面にドカドカと入り込んで行き、診察室では私たちは平等であると宣言、将来国王になるかもしれない男を愛称で呼ぶことを主張し、ヘビースモーカーの彼に対して禁煙を要求する。そんな無頼漢ライオネルに反発して何度か治療を諦めてしまうジョージだったが、紆余曲折を経て、二人の真剣にして珍妙な関係は継続していく。実話に基づいて見事な脚本を仕上げたデヴィッド・サイドラー(フランシス・フォード・コッポラ監督『タッカー』の脚本家)とトム・フーパー監督は、この二人の関係を魅力的に構築していくだけではなく、ナチスドイツに対する宣戦布告を宣言するジョージ6世の、大文字の"歴史"へと本作の道筋をスムースに拡げて行くことにも成功している。イギリスの曇天の下、マイケル・ケンナの不穏で静謐な「ノートル・ガーデン」をも想起させる霧が舞う屋外の画を撮り上げたダニー・コーエンの撮影も特筆に値する。

そうした映画自体の圧倒的な完成度の高さはもとより、いささか皮肉な言い方になるが、欧米にとって、最後の"誇れる戦争"だったと言って良いだろう、ナチスドイツに対する宣戦布告のスピーチの隠れたエピソードでもある本作がイギリスとは兄弟分にあたるアメリカ合衆国の映画業界人が選ぶ"アカデミー作品賞"を獲得しないわけがないと思う一方、対抗馬『ソーシャル・ネットワーク』もまた、アメリカ合衆国の"軍事技術"が生み出したインターネットの最新トピックであるソーシャル・ネットワーキング・サービスFacebookの創業者のポートレイトを良くも悪くも刺激的に描いた作品であって、非常に皮肉な事には、ジャスミン革命、エジプト革命を初めとした中東における民主化の波のインフラとなったインターネットが果たしている役割を、"自由"の国アメリカは表面上サポートしながらも、国益的には親米独裁政権を存続させたいと腹の中では願っているというダブル・バインド状態の中で、マクロな視点で見れば、ネーション・ステートの存続に何ら疑いの余地を挟まない『英国王のスピーチ』が順当に選ばれるのか、あるいは、ネーション・ステートの存続を危機に向かわせる可能性を秘めたインターネットという米国自由主義、個人主義の"鬼子"の刺激的な未知の可能性を感じさせ、脚本家アーロン・キーソンのネット社会の孤独を描くという意図を超えて社会情勢と共に刺激的な一人歩きを始めた『ソーシャル・ネットワーク』が意外にも選ばれるのか、個人的に実は大いに注目している。現実の社会と相似形の時代の地殻変動的価値観の対立が、このアカデミー賞レースでも起きているということは、全く偶然などではなく、これこそ"映画"が容赦なく映し出してしまう"現実"の鏡なのだと言うべきだろう。


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『英国王のスピーチ』
原題:THE KING'S SPEECH

2月26日(土)よりTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマ他全国順次公開
 
監督:トム・フーパー
脚本:デヴィッド・サイドラー
製作:イアン・カニング、エミール・シャーマン
撮影:ダニー・コーエン
編集:タリク・アンウォー
美術:イヴ・ステュワート
衣装:ジェニー・ビーヴァン
出演:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター、ガイ・ピアース、ティモリー・スポール、デレク・ジャコビ、ジェニファー・イーリー、マイケル・ガンボン

© 2010 See-Saw Films. All rights reserved.

2010年/イギリス、オーストラリア/118分/カラー/ビスタサイズ/ドルビーSR/ドルビーデジタル
配給:ギャガ

『英国王のスピーチ』
オフィシャルサイト
http://kingsspeech.gaga.ne.jp/
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