『パレルモ・シューティング』

上原輝樹
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プールサイドで、子どもの頃に泳ぎを覚えなかったのがそもそもの間違いだった、と呟くドイツのロック・ミュージシャン、ガンピーノが演じる主人公フィンの一言は、この世に存在する少なからぬカナヅチ諸君の心を鷲掴みにするだろう。「水泳が下手な人は、世渡りも上手くない」という格言もあながち出鱈目ではないかもしれないと思い始める程度に齢を重ねた者には、フィンの呟きは一際真実味を帯びて響くかもしれない。そんな弱音を吐きながらも、つり上がった攻撃的な眉が印象的な表情を作る、ガンピーノの不敵な面構えに惹かれ、久々にノワールな気配を感じさせるヴェンダースの新作に引き込まれた。

泳ぎは苦手としているが、ブッ飛んだファッション・フォトグラフを、商業映画並みのセットを組んで演出していく彼は、セレブな売れっ子カメラマンだが、子供も持たず、妻との生活にも破綻を来している。私生活は荒み、ファッション業界の表層的過ぎる仕事にも飽きがきている。この辺りの設定は、ソフィア・コッポラ『SOMEWHERE』でスティーブン・ドーフが演じたハリウッド俳優の憂鬱を想起させるけれども、彼にはエル・ファニングが演ずる愛娘がいて、未来への希望を繋いだが、フィンにはそうした家族の影は見当たらず、内面の空虚はより深い、とひとまず言ってみることもできるかもしれない。内面に空虚を抱え、地元デュッセルドルフのバーで酒を飲む彼は、ルー・リードの亡霊ならぬ、幻影を見る。ヴェンダースが未だかつて1ショットもキャメラを向けたことがなかったという、生まれ故郷デュッセルドルフに初めてキャメラを向けた一連のシークエンスは、ヴェンダースの個人史が色濃く滲み出た、フィクションの境界線を逸脱する興味深いものになっている。

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ヴェンダースが長年敬愛するルー・リードが登場し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の名曲「サム・カインド・オブ・ラヴ」を、スポークン・ワードで語りかける。ルー・リードのファンにとって、この曲がこうして格別な扱いで遇されることには大いに納得できる理由がある。それは、この曲の歌詞の"Between thoughts and expression lies a lifetime(考えることと表現することの間に、人生が存在する)"というシンプルなフレーズが、ルー・リードの創作に対する基本的な考え方を、ひいては、全てのとはいわないが、多くの表現者の人生にまつわる明白な事実を身も蓋もないワンフレーズで表現してしまっていると思えるからだ。もちろん、映画作家も例外ではないはずで、ヴェンダースが、デジタルで処理しているとはいえ、夜のバーの空間にルー・リード本人を浮かび上がらせ、この歌詞を語らせていることに今更ながらも感動を禁じ得ない。

そして、ヴェンダースのキャメラは、彼の両親が埋葬されているというライン川沿いのノルトフリートホーフ墓地をも視界に収めるのだが、ここでフィンは、たまたま目撃する貨物船に書かれていた"パレルモ"という地名に興味を惹かれる。そのインスピレーションに導かれるまま、付き合いの長いモデル、ミラ・ジョボヴィッチ(本人役)の願いで妊娠した彼女のありのままの姿を撮影すべく、イタリア南部シチリア島の"パレルモ"へ飛ぶことにしたフィンは、やがて、その被征服の歴史から生まれた国際色豊かな文化都市の発する"死"の魅力に抗えず、囚われるようにその地に留まることになる。

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フィンの旅路は、人との出会いで形成されていく。フィンは、伝説的なシシリアの写真家レティッツィア・バッターリア Letizia Battaglia(※)と一瞬の魂の交歓を交わすことになるだろう。バッターリアは、自らの危険を顧みず、マフィアによって殺された人々の写真を撮り続け、それを出版、判事や政治家の暗殺が日常化していたパレルモにおいて、驚くべき勇気を示した女性写真家として人々の尊敬を集める人物である。 もう一人の女性との出会いは、ヴェンダースの映画でさえなければ、もっとロマンティックなものになっていたかもしれない。

マルコ・ヴェロッキオ監督の傑作『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』で、闇に葬り去られるムッソリーニの愛人を、情念の炎を激しく燃やし映画の中を生き、そして死ぬように演じ切ったジョヴァンナ・メッゾジョルノが、巨大壁画「死の勝利」の修復を生業とするフラヴィアを演じる。フラヴィアとフィンは、街中での何度かの偶然の出会いを通じて関係を深めていくが、フラヴィア自身もある過去の出来事に囚われる"死"に取り憑かれた人物だった。

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フレスコ画「死の勝利」は、実在のパレルモ州立美術館に収蔵される、15世紀半ば、ペストに襲われる人々の恐怖を描いた作者不詳の傑作として知られる作品である。この人々を襲う死神のモチーフは、その後、16世紀には「イカロスの墜落」や「バベルの塔」で人間の行いの愚かさを描いた、現代的な批評精神を持った作家ブリューゲルの「死の勝利」へと受け継がれ、スペクタクルな地獄絵図として展開されるわけだが、本作におけるヴェンダースの解釈は極めて21世紀的な転換を示している。すなわち、彼女が修復に従事するフレスコ画「死の勝利」は、悪政を働いた国王や権力者たちが死神に追われ、矢を放たれて死ぬ様を描いたものであり、時として、"死神"は現世の悪に死をもたらす"救い"として描かれているという解釈を示す。ヨーロッパにおいて、この解釈を本作の肝に据え、"死"にまつわる価値観の位相の横滑りを試みるヴェンダースのチャレンジが何とも心憎い。ラテンアメリカの国では、珍しくもない表象であるかもしれないが、全世界で貧困が拡大していく21世紀において、しばしば天使は"死神"の顔をして、映画に降臨する。

そして、ついに本作の"死神"がヴェールを脱ぐ。「この世から消えて行くものを記録するのが私の仕事だ」と語ってきたヴィム・ヴェンダースは、ニコラス・レイの最後を(『ニックス・ムービー/水上の稲妻』80)、アメリカの西部の最後を(『パリ、テキサス』84)、アメリカ黄金時代の物質的繁栄の最後を(『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』99)、日本映画における最後の父親像を(『東京画』85)、律儀にフィルムに収めてきたのと同じ流儀で、今度は自らの長年の友人であるデニス・ホッパーの最後の独壇場をフィルムに収めることができたのは、何という僥倖だろうか、本作で命の炎を激しく燃やすホッパーの愛すべき死神ぶりを観て、そう思わずにいられない。

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若い頃からシェイクスピア劇で高い評価を得る優秀な舞台俳優だったデニス・ホッパーが、『理由なき反抗』(55)と『ジャイアンツ』(56)でジェイムス・ディーンと共演し、初めて自分より上手い役者と出会ったと、自らの敗北感をあからさまに語ったのは、『地獄の黙示録』のメイキング・ドキュメンタリーだっただろうか?ジェイムス・ディーンの死後、ハリウッドで周囲と上手く折り合わず、ニューヨークへと活動の拠点を移し、絵画や写真、自主映画への出演に時間を費やしていたホッパーは、彼が監督・主演を務めたロード・ムービー『イージー・ライダー』(69)でアメリカのフロンティアを目指すアウトサイダーとして、スクリーンでその存在をようやく知られることになるが、度重なるドラッグ問題が彼のキャリアに大きく影を落としていく。

どん底にいたホッパーを救ったヴェンダースの『アメリカの友人』(77)、そして、コッポラの『地獄の黙示録』(79)、『ランブルフィッシュ』(83)といった作品で映画ファンには顔馴染みの存在であり続けていたホッパーだが、その後再び大きく注目されたのは、デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルヴェット』(86)における偏執狂的性倒錯者フランクがブレイクした悪名高き80年代のことだった。以降は、去年2010年5月に逝去するまで、スクリーンで独特の存在感を発揮し続けてきたが、正確には遺作ではないけれども、彼の遺作と呼びたい衝動に駆られる本作における彼の役名が、『アメリカの友人』のトムではなく、『ブルー・ベルヴェット』のフランクであることも不思議な感興を誘う。

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傍ら、アートコレクターとしての目利きが高く評価され、ニューヨークのアートシーンの中心人物として活躍していたことも広く知られ、殺しても簡単には死なないような、デモーリッシュな気配すら漂わせていたホッパーが本当に亡くなってしまったわけだから、現実の世界はいよいよ寂しい場所になっていく。そんな日に日に寂しくなっていく場所<In a Lonely Place>で、ヴェンダースは愛する対象を律儀にキャメラに収めていく。

現実では死んでしまっている人も、映画の中では死なないことを観客は知っている。映画の中で人はリアルに死なない。現実で死に囲まれている私たちは、映画を観ている間だけは、少なくともスクリーンに映されている人が死ぬことはない、その最低限の安心感の中で私たちは暗闇に重い腰を沈めることができるのかもしれない。天使の顔をした死神的映画作家ヴェンダースが、次にキャメラを向けたのは、天才的な舞踏家ピナ・バウシュであり、そのドキュメンタリーは3D映画になるということは今や誰もが知るところだが、残念ながら、2009年6月に68歳で逝去してしまったピナの、またしても"最後"をキャメラに収めることに間に合ってしまった、ヴェンダースの死神的映画作家としての引きの強さには、もはや怖れを感じるほかない。


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Comment(4)

Posted by PineWood | 2017.01.13

先日、ミラ・ジョボビッチ主演のバイオハザードを見ていて本編で妊娠ヌードを撮らせるシーンが甦ったー。ゾンビの死神と格闘していた美少女がパレルモシューテングでは新しい生命を孕む…。消え行くもの(死)を考察する事がメメントモリの静物画の西洋絵画の思想であり、本当に生きるとは何かと言う事の思索・哲学だった。3.11の当時、来日してフクシマを取材したヴィム・ヴェンダース監督。写真家セバスチャン・サルガドのドキュメンタリーでは正に愛すべき地球の生命と拘わる仕事をしていた。

Posted by イハラ | 2015.11.10

私たちを取り巻く世界の今の【REAL】とは?
【DEATH】とは?
そして、私たちは何に【SHOOTING】されているの?…。そんなことを考えながらスクリーンと向き合い、この映画を観ていました。

話自体は…
いくらでも人の手を加えられるデジタル技術の人為的な混沌を離れるべく…写真家・フィンは〈ありのまま〉のものの魅力再発見の為、「SOME REAL PLACE」を探す旅へ出ますね。

一方で、偶然に死神をカメラで撮ってしまった為、死神に矢で射られ続ける…そんな、命を脅かされたフィンの死神捜しの物語にもなっていますね。

フィンは本来、死神(デニス・ホッパー)を写真に撮った為、死神を見た者の宿命として死なねばならないところです…
が、最後には死神と向き合うなかで【死】の意義を説かれることになります。

結果、フィンは自らの人生における【死】の価値と親しくなり…その上で今一度、死神から生きる機会を与えられます。
…来たるべき死を視界に入れたフィンは、自分も終わりある時間の一部であることを意識し【与えられた時間を生きる私】になります。…彼が、自身の目覚めた目で見たラストシーンは輝いていました。

探していた【SOME REAL PLACE】は、人生という【与えられた時間を生きる私の目を通して見出だされる…目の前に見えるそのものの世界】でした。

フィンが探していた【SOME REAL PLACE】は、私たちが生きている間だけ関われる、限りある世界でした。

ベルリン/天使の詩:で時間の中に誕生する喜びを描き…。
時の翼に乗って:で死に怯える混乱を描き…。
この2作を端的に本作へ織り込み、ヴェンダースの視線で…私たちを取り巻く〈時間〉と〈リアル〉を、この映画を通して掬い上げようとパレルモ・シューティングで頑張っています。

しかし映画では、理屈が勝っていました…。【REAL】の何たるかを描く事が足りません。フィンの精神の停滞・惑い・不安の語りが少ない為、ラストでフィンが辿り着いた世界が何だったのか、どれだけの観客がフィンの辿り着いた世界に出会えたでしょう。

観ていれば理屈は分かるのです。
ヴェンダース・ファンとしては頭の中で過去の作品と、本作の理屈を再構成して本作が分かったつもりになれるのです…

が、肝心の1作品として見れば、描けていない空白が多すぎました。
作品内に現れる言葉や歌・曲、絵画などでは埋め切れていないのですね…フィンの探求心そのものや、フィンを取り巻く世界の在り様が。

フィンの旅立ちも、死神との幾度の出会いも、唐突にして違和感が感じらました。その為か、フィンの行動や出会い、気付きに至る、その流れに必然を汲み取れませんでした。

…理屈は分かるのです…作り手が語りたい理屈は。
映画で描こうとして、ついに描けなかった、また、作品のまとまりが歪になった理由が気になったイハラです。
それでも好き嫌いを問われれば…好きな作品です。好きなヴェンダースが作ったのだから好きになるしか仕方ない。
彼が、映画と人間の事を考えて考えて考え抜いて、理屈っぽさを突き抜けた映画を発見するその時をいまだに心待ちにしています。

Posted by PineWood | 2015.10.06

本編には、イングマール・ベルイマン監督の映画(第七の封印)の死神とのチェスの対局シーンが引用されている 。眉をそったメイクのデニス・ホッパーはその死神のイメージを彷彿させた。壁画に描き出された死のイメージという設定も同じだ。ゴダール監督が美しい映画の一本に揚げた(夏の遊び)も、中年のバレリーナが日記を通じて、青春時代に海岸での恋人の事故死の意味を反芻するロードムービーで、過去に取り付かれたヒロインの内面を描いた作品だった。ベルイマンの映画(野いちご)そのものが、針の無い時計が登場するシュールな悪夢のシーンで始まる…。サルバドール・ダリの歪んだ時計も有名ですが、本編にもシルエットで刻まれる時計が冒頭の室内シーンに出てきた。時間と死と再生の物語であることが告げられていたのだ。ヒロインを演じたジョアンナ・メッツジィオルノが、ガルシア・マルケス原作の映画(コレラ時代の愛)
で主演していたのも愛と死と時に関わる(パレルモ・シューテイング)での壁画修復師役とオーバラップ!

Posted by PineWood | 2015.05.04

映画(パレルモ・シューテイング)拾い物でした!ーと言うのがフイルムセンターの久々にあった常連の感慨でした。ヴィム・ヴェンダースを死に取り付かれた作家だ観る視座に共鳴しました。フランソワ・トリュフォー監督がヘンリー・ジェイムス原作の映画(緑色の部屋)で死者に取り付かれた役を自身で演じていたのと共通する部分です。イタリアの女優ジョアンナ・メッツジョルノの好演も光っていました♪
続く(Pina)も果敢に3D にチャレンジして、映画(スター・ウオーズ)でホログラフィーで姫が登場した時のような驚きがありました。3D を建築構造として意識したドキュメントも撮っているヴェンダースですが、コンテンポラリー・ダンスを都市の空間の中でどう位置付けるかの格闘の跡が見られます。

『パレルモ・シューティング』
原題:PALERMO SHOOTING

9月3日(土)より、吉祥寺バウスシアターにて3週間限定爆音レイトショー
9月10日(土)〜23日(金)の期間は、昼間の通常上映もあり
 
監督:ヴィム・ヴェンダース
プロデューサー:ジャン=ピエロ・リンゲル
カメラ:フランツ・ラスティグ
オリジナル映画音楽:イルミン・シュミット
編集:ペーター・プルツィゴッダ
出演:カンピーノ、ジョヴァンナ・メッゾジョル、デニス・ポッパー、ルー・リード、ミラ・ジョヴォヴィッチ

© Number 9 Films (Perrier) Limited / Bounty Film Productions Limited 2009

2008年/ドイツ・イタリア・フランス/108分/カラー
配給:boid

『パレルモ・シューティング』
オフィシャルサイト
http://www.palermo-ww.com/


『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』、『ピナ・バウシュ 夢の教室』レビュー


















































































































(※)レティッツィア・バッターリアの画像リンク
http://images.google.co.jp
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q=Letizia+Battaglia&lr=lang_ja&
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