『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』、『ピナ・バウシュ 夢の教室』

上原輝樹
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映画ファンにとっては、フェリーニの『そして船は行く』(82)や、とりわけ近年のアルモドバル作品『トーク・トゥー・ハー』(02)への出演が鮮烈に記憶に残っているピナ・バウシュについてのドキュメンタリー作品が、同時期に2本公開されている。

もちろん、ヴェンダース初の3D映画である話題作『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』の公開に合わせて、『ピナ・バウシュ 夢の教室』の公開が実現したという流れと思って間違いないだろう。既にNHK BSで2011年10月2日に放映されている『ピナ・バウシュ 夢の教室』は、それでも尚、ヴェンダースの『pina 〜』とは全く違った意味で、一見の価値のある作品に仕上がっている。

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『ピナ・バウシュ 夢の教室』を監督したアン・リンセルは、ドイツのヴッパタール在住のアート&カルチャー分野を専門とするジャーナリスト/評論家だが、1973年にピナ・バウシュがヴッパタール・バレエ団の芸術監督に就任して以来、<タンツテアター>に何年も密着取材し、ピナとの信頼関係を培った。ピナ・バウシュと、かつてのパートナー、ロルフ・ボルツィク(80年に逝去)が創造した<タンツテアター>とは、ダンスや演劇、オペラ、美術との境界線を越境し、ダンサーに台詞を喋らせたり、日常的な動作を繰り返させたりすることで、彼/彼女らの身体を反復状態に追い込み、内面に封じ込められていた深い感情を表出させる、ひとりの人間としてのダンサーが観客と向き合う、極めて現代的な舞台芸術の手法を確立するものだった。

<タンツテアター>の代表作にして、ピナ・バウシュの集大成といわれる「コンタクトホーフ」は、浅田彰いわく「愛することが憎むことであり憎むことが愛することであるような人間関係の臨界にまで、パフォーマーを心身ともに追いつめていくことによって成立する、"お触り宿"と訳してもいい」作品である。この作品に魅せられたアン・リンセルは、上演を12回以上も観たのだという。

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1978年にヴッパタール・バレエ団によって上演された「コンタクトホーフ」は、2000年には、65歳以上の男女によって上演され、美や洗練、死や老い、といった様々な概念をその年齢に応じたアングルから捉え直すことに成功した。今度は、その「コンタクトホーフ」を、ティーンエイジャーの素人たちに演じさせる、という話を聞きつけたアン・リンセルは、映画の題材にぴったりだと感じ、ピナに撮影の許可を取り付けたのだという。

果たして、様々な人生経験や恋愛感情を内面から掘り起こす精神的強さが必要とされる"お触り宿"とも称される作品に、ティーンエイジャーの素人ダンサーたちはどのようにして向き合っていくのか?ピナと、彼女の言語を体得しているジョセフィン=アン・エンディコットという理解者、そして、ダンス経験のないパフォーマーたちがどのようにこの不可能な事態に挑戦していくのか、その悪戦苦闘のプロセスを、本作のキャメラ(ライナー・ホフマン)は、極めて慎ましい立ち位置から捉えている。

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被写体に慎ましく奉仕する姿勢が潔い本作は、もっとも平明な意味でのドキュメンタリー映画として、ティーンエイジャーたちが、まさしく"夢の教室"で自らを開いていくプロセスを捉え、ピナの哲学の根本にあるといわれる"教育者"としての成果を見るものに伝える、正しく理性に訴えかける素晴らしい作品に仕上がっている。

しかし、ここで捉えられた姿が生前の最後の映像であるともいわれているピナは、自らの姿を現しはするけれども、ほとんどカメオ的な出演に留まっている。それには、ピナの作品に対する防御的な姿勢も大きく関係しているかもしれない(ピナは、リハーサル期間、他のどんな撮影チームの立ち入りも許さず、メディアへの写真や記事の掲載も許さなかった。彼女はインチキな世間に、自分の仕事を邪魔されたくなかったのです/アン・リンセル談)。撮影を許可されていたライナー・ホフマンのキャメラも、映画的に"クライマックス"となったかもしれない、「コンタクトホーフ」公演初日のミーティングからは締め出されてしまった。しかし、そのミーティングを自らの目で目撃したアン・リンセルは、ピナが、少年少女たちに、自分の作品を世に送り出してくれてありがとう、と目に涙を浮かべながら感謝の意を伝えていたことを、談話として残している。

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一方、ヴェンダースの『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』は、堂々たるスペクタルな映像作品として仕上がっている。ピナ・バウシュとは20年来の友人であったというヴェンダースならではの視点で描かれた本作は、ピナの生のステージを見たことのない筆者にとっては想像の域を出ない話になってしまうが、残された様々な映像やイメージ、発言から伝わってくる"fearless=怖いもの知らず"なピナ・バウシュの人物像と見事に合致する、表現活動に対する"初期衝動"を漲らせた野心作である。

君の映画を作りたいと、ヴェンダースがピナに約束をして以来、作ろうにも彼女のダンスを映像化するアイディアを思いつかずに20年間を経過してしまっていたヴェンダースに、ある日僥倖が訪れる。U2の3Dライブ映画『U2 3D』を見て、これだと思い、映画化に着手し始めたというヴェンダースの頭の中でそのイメージが炸裂した瞬間に、果たして、それは"映画"と呼べるのだろうか、などという自問自答があったとは到底考えられない。むしろ、そんな自己規制をすっ飛ばす勢いで生じたロック的な"初期衝動"がヴェンダースを突き動かしたに違いない。そして、それは紛れもなく、3D映像という新しい技術によってもたらされた。

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強い"初期衝動"は、様々な未知のものに対する"怖れ"を解除する。必ずしも、常に"fearless=怖いもの知らず"な映画作家というわけでもなかったヴェンダースを、ピナ・バウシュの強烈な実験精神が、映画作家を"怖いもの知らず"な状態に導いたのに違いない。そんな"共同作業"としか言いようのない、二人のアーティストの魂の共鳴が本作の根底にあるように思える。

ヴェンダースのキャリアを振り返ってみれば、"新しいもの好き"な映画作家としての一面も全く想起されないというわけでもない。昨年のフィルメックスでついに日の目を見た『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』でニコラス・レイがナム・ジュン・パイクのビデオ・アートを果敢に取り入れたのが、1970年代の話だから、ヴェンダースが1992年に『夢の涯てまでも』でビデオのソラリゼーションを全面的に取り入れたのは、決して"新しいもの好き"といえる反応の早さではなかったかもしれないが、1973年に「"怖れ"を知るという特別なテーマのためにとられたフィルム」(※)であり、ヴッパタールの地をキャメラにも収めている『都会のアリス』の撮影の合間に、1971年に発売されたばかりのSX-70というポラロイドを使ってスチルを撮っていたことは、ヴェンダースの"新しいもの好き"を証明する心もとない証拠のひとつくらいにはなるかもしれない。

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いみじくも、『都会のアリス』が"怖れ"を知ることをテーマにした映画であったことと、ヴェンダースが40年を超えるキャリアで一貫して追求してきたテーマである"なくなっていくものを記憶/記録すること"が矛盾することなく同居しているように見えるのは、その"怖れ"という概念が"なくなっていく"こと="死"をいやがうえにも連想させるからだろう。しかし、強烈な"生"="命"を想起させるピナ・バウシュのエネルギーが、ヴェンダースを新しい技術の世界に駆り立て、今作ばかりは、ピナが体現する"生命の躍動感"が映画を支配することになるだろう、とヴェンダース自身も思っていたに違いない。

しかし、前作の『パレルモ・シューティング』(08)でもそうだったように、"死神"と深く関わってきたヴェンダースは、またしても、愛すべき友人を失ってしまう。その時点で、一度は映画化の話を断念したヴェンダースだったが、ピナの遺族や、ヴッパタールのダンサーたち、世界中から届く映画化熱望の声に背中を押され、一旦断念していた映画作りを再開させることになる。その結果、本作は、U2のライブ映像に想を得たスペクタクルな映像作品であると同時に、62歳という若さでこの世を去ってしまったピナ・バウシュという希有な才能を持った人間の"生"の強烈な躍動感、"怖れ知らず"なままに逝った彼女の勇敢さをより一層際立たせる、重い衝撃を持った作品として成立してしまっている。そこには計算不可能な恐ろしい偶然が作用し、またもや、映画作家は、結果的に友人の"死"=自らの"怖れ"について知ることになってしまった。そもそも「"怖れ"について知ること」とは、40年前の『都会のアリス』で彼が試みたテーマであったのだが。

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"なくなっていくものを記憶/記録すること"とは、すなわち"その地"を映像に収めるということ、それは"ロードムービー"の主題でもある。『パレルモ・シューティング』におけるパレルモや『アメリカ、家族のいる風景』(05)におけるアメリカ西部のフォード的ロケーション、エドワード・ホッパー的光景といったいつものヴェンダース印を例に挙げるまでもなく、本作ではそのロケーションとして、ピナが長年活躍し、彼女のバレエ団が存在する地"ヴッパタール"に焦点を定め、屋外の抜けのいいロケーションにダンサーを連れ出して撮影し、曰く言い難い開放感を映画にもたらすと同時、ピナと共にあったその地を、彼女のダイナミックな存在感に相応しいスケールで映像に収めている。

本作の3D映像が必ずしも最高のものであるかどうか、ということをこの段階で評価するのは難しい。むしろ、3D映像独特の"掴みどころのなさ"は、本作のダンス・パフォーマンス映像において極まっている感じすらあって、その点において正に3D映像の未知の可能性が残されいるという気すらしてくる。

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ヴェンダースが本作を作る上で大いに研究したというジェイムス・キャメロンの『アバター』が公開された2009年を3D映画元年とすると、今はまだそれから3年しか経っていない。その間には、ジェイムス・キャメロンを呆れさせたというアレクサンドル・アジャの『ピラニア3D』(10)、スピルバーグの『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(11)、スコセッシの傑作3D『ヒューゴの不思議な発明』(11)、ヘルツォークの『世界最古の洞窟映画 3D 忘れられた夢の記憶』(10)といった強者たちの話題作に加え、ついにはゴダールが3Dで作り始めているというニュースも飛び交う始末である。これが新しい何かの始まりでないとしたら、一体なんだというのか。是非、ティーンエイジャーの皆さん、65歳以上の皆さん、あらゆる年齢層の観客の皆さんに、この映像と音を体験して、彼/彼女らが挑戦する分野が何であれ、"fearless=怖いもの知らず"な魂に共鳴する悦びを体験して頂きたい。


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Comment(4)

Posted by PineWood | 2017.01.17

名画座でヴィム・ヴェンダース製作総指揮のラスト・タンゴとパコ・デ・ルシア~灼熱のギタリストを見ました。映画ピナでは実現できなかった様なダンサー本人インタビュー等を通じてラスト・タンゴは自由自在に愛憎のドラマを物語って行く…。パコの方はヴェンダース監督セバスチャン・サルガドがその息子が監督した父へのオマージュであった様に、パコの息子が描き出した家族の肖像♪

Posted by PineWood | 2015.06.22

3D 映像の掴み処の無さは、ヴィム・ヴェンダースのロードムービーの代表作でモノクロ映画の(都会のアリス)の中でポラロイドカメラを手にしたライターの嘆きと一致する!詰まりポラロイドカメラでは(眼に見たようには決して撮れない!)と。当時の最先端のテクノを文章表現に活用しようと常時そのカメラを持ち歩き車は売ってもカメラは手離さないという程、愛着がある。結局、締め切りに提出するのは文ではなくて、写真で編集者の呆れ顔をにもシャッターを切るのだったー。こんな中年?の彼が預けられてしまった少女アリスと家族探しの旅路に出るワンダーランド。ピナの故郷のウッターバルも登場するが、それは少女の嘘。虚実が錯綜しながら父娘のような恋人のような二人。ジュークボックスを聴く男の子のナアナナナ♪みたいな口ずさむ倦怠感漂うなシーンはこの映画の見事さだろう!CM など数秒単位で切り刻まれた商業TVや ラジオへの嫌悪感が痛烈なこの映画で、本物の映像や音楽の醍醐味とは何かをまさに感じさせたシーンだ。永く退屈な程、人生を愛したアンデイ・ウオホールの実験シネマ みたいだ!S .M.エイゼンシュテイン 監督が夢見た3Dがどんな可能性を持つかは計り知れないが、映像には、映像でしか言い表せないことが有るのではないか。ピナの映像がなくてもピナの精神はウッターバルの街そのものではないか…と問うのがヴェンダースの今回のシネマ 。

Posted by PineWood | 2015.05.04

映画(夢の教室)は2度見たが良かったです。初々しさが伝わってきて(トリュフォーの思春期)のラストの初めてのキスシーンみたいです♪ヴェンダース監督の(Pina )は、音楽が最高なんですがー。最近ではエルンスト・ルビッチ監督のサイレント映画の名作(結婚哲学)を見たときにバックに流れている曲がピナのダンスで使われている曲みたいで、とても懐かしかったです。

Posted by 山本アルドリッチ | 2012.03.23

ヴェンダースの3D映画は
テレビ番組が作りそうな各舞台作品のダイジェストと
メンバーが思い出を語るインタビュー構成という
紋切り型の人物ドキュメンタリーの粋を出ていないと思う。

そもそも一つの物語にも意味にも収まらないのに
涙を流し、笑い、感動することが
ピナ・バウシュの作り出した舞踊芝居の最大の魅力だとしたら
追悼トーンで染め上げられたヴェンダース映画は
(もちろんテアターの踊り手たちやピナ・ファンに対しての
喪の仕事としてはそれでいいのかもしれないが)
その誠意にもかかわらず、ピナの作品を取り逃がしている。
宣伝文句に踊る「魂の共鳴」どころか、端的に齟齬をきたしていると言わざるを得ない。

ヴェンダースが息せき切って「ピナのダンスを撮るにはこれしかない」と自慢してみせる3D映像にしても、
「春の祭典」の赤いスカーフや砂まみれで踊るダンサーたち
や、そこかしこで内容と関係なく目を引く木々を撮るのには効果的と言えるかもしれないが、
例えば「コンタクトホフ」でダンサーたち、老人たち、若者たちのそれぞれの舞台を同じ舞台でのカット割りのように
カットバックさせることなど2Dでもできるし
3D映画全編を通して、最も魅力的になのが、演出したり踊ったりしているピナの過去映像(もちろん2Dだ)であることに、ヴェンダースは自覚的だったのだろうか?
これはシニカルな2D賛歌なのか?

心ある映画批評家たちの擁護にもかかわらず
あの惨憺たる「パレルモ・シューティング」を見ても明らかなように、もはや傑作を撮ることはないと言い切っていいのではないだろうか?

『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
原題:PINA

ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿バルト9ほか、全国順次3D公開
 
監督・脚本・製作:ヴィム・ヴェンダース
出演:ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踏団ダンサーほか

© 2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION

2011年/ドイツ、フランス、イギリス/104分/カラー/ヴィスタ/SRD
配給:ギャガ

『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
オフィシャルサイト
http://pina.gaga.ne.jp/


ヴィム・ヴェンダース
『パレルモ・シューティング』
 レビュー









『ピナ・バウシュ 夢の教室』
原題:TANZTRAUME‐JUGENDLICHE TANZAN KONTAKTHOF VON PINA BAUSCH

3月3日(土)より、ユーロスペース、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、全国順次公開
 
監督:アン・リンセル
撮影監督:ライナー・ホフマン
出演:ピナ・バウシュ、ベネディクト・ビリエ、ジョセフィン=アン・エンディコット

© TAG / TRAUM 2010

2010年/ドイツ/89分/カラー/HD/ステレオ
配給:トランスフォーマー

『ピナ・バウシュ 夢の教室』
オフィシャルサイト
http://www.pina-yume.com/



















































































































































































































(※)「かつて...」ヴィム・ヴェンダース PARCO出版 より
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