OUTSIDE IN TOKYO
Albert Serra INTERVIEW

タイトルバックに、屋外の風景を移動撮影で捉える映像が流れ、虫や鳥の鳴声、車椅子を引く音が微かに聴こえてくる。見るものに細心の注意を求める映画であることをエレガントに伝えるオープニングタイトルが素晴らしい。映像は、夕暮れ時の野に佇む、従者と車椅子に腰掛けた”太陽王”ルイ14世(ジャン=ピエール・レオー)の姿を映し出し、王の「戻ろう」の一言で、一行は宮廷へ帰る。以来、かつて”太陽王”と呼ばれた男が、陽の光を浴びる機会は二度と訪れそうもない。宮廷の中では、王がベッドに横たわる寝室の隣室から優雅なチャンバー・ミュージックが聴こえてくる。着飾った淑女たちが、ご一緒しましょうと王を誘うが、彼には最早そうした誘いに応じる余力は残されてはいない。ただ、久々に再開を果たした愛犬との戯れに、萎えた心が束の間の輝きを取り戻す瞬間が俄に訪れるばかりだ。

僅か5歳にしてフランス国王に即位したルイ14世(1638-1715)は、その後72年間もの永きに亘って国王として君臨したのだという。17世紀から18世紀を跨ぐ時代において”72年間”とは一体どのような長さなのか、想像もつかないスケールだが、王はその間、絶対王政を敷き、侵略戦争によって領地を拡大、国威を示すヴェルサイユ宮殿を建造し、国内外に権勢を誇った。しかし、数々の戦争と宮廷の驕奢は国の財政を悪化させていき、やがて、ルイ16世(1754-1793)の治世にフランス革命(1789)が起き、絶対王政は終焉を迎える。

スペイン・カタルーニャ州出身の鬼才アルベール・セラは、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの彷徨を描いた長編第一作『騎士の名誉』(06)、キリスト誕生を祝福する東方の三賢人を描いた『鳥の歌』(08)、カサノヴァが最後の日々にドラキュラと出会う奇想天外な死の寓話『私の死の物語』(13)と、エピックな人物を主人公とし、あたかも、実際にそのようなことがあったかのような、大胆不適な寓話を、繊細な手つきで描いてきた。本作でもセラは、その独自のスタイルを踏襲し、”死”が少しづつ優勢を誇り”王”から確実に生命を奪っていくさまを、ジム・クレイスの小説『死んでいる』をも想起させる圧倒的に緻密な描写で見るものを釘付けにし、”ルイ14世の最後というのは、まさしくこのようなものだったに違いない”と信じ込ませてしまう、豊かな映画的現実を紡ぎ出すことに成功している。

自ら”プロの俳優ではないことのプロフェッショナル”であると自認するジャン=ピエール・レオーをはじめとして、本職は雑誌編集長でありながら、ルイ14世の最後の妾マントノン夫人を演じたイレーヌ・シルヴァーニら、俳優陣の見せる厳かで美しい佇まい、そして、見るものを魅了する衣装、美術に加えて刺激的なのが、この宮廷内で交わされる虚実ないまぜの会話の数々である。元来”作家”を目指していたというアルベール・セラの面目躍如というべきだろう。側近のブルアン(マルク・スジーニ)と従医ファゴン(パトリック・ダスマサオ)との間で密やかに交わされる宮廷政治的要素に満ちた慇懃な日常会話のやりとり、自らが即位したのと同じ年齢で近い将来ルイ15世となるはずの曾孫に託した”王の教え”、パリ大学から呼び寄せられた医師たちとパルセロナから来た医師ルブラン(ビセンス・アルタイオ)との間で交わされる、医学が確立される以前の医学と人間、自然を巡る哲学的議論、こうした数々の会話の中から、映画作家アルベール・セラの”思想”が自ずと立ち上がってくる。

素晴らしいのは、今回、改めて来日を果たし、自らの来歴を語ったレクチャーや、様々な機会を通じて発せられた本人の言葉と、作品群から滲み出てくる彼の思想とが、大胆不敵かつ異端的ともいうべき一貫性で貫かれていることだ。とりわけ、数多の為政者が語る言葉が空しく崩壊し、”言葉の崩壊が世界の崩壊を招く”ことを目の当たりにしている国で暮らす者にとって、この堂々たる異端者が古典的映画の佇まいすら滲ませながら、自らの作家性を縦横無尽に発揮しているさまには大いに勇気づけられる。アルベール・セラは、”21世紀の前衛”であると当時に、言葉本来の意味における”芸術家”そのものの存在である。

1. 私は二つの要素を混ぜあわせようと考えました。瀕死の状態を、臨床的に、
 サイエンティフィックに描くこと、そして、ファンタジー的要素を混ぜることです。

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OUTSIDE IN TOKYO(以降OIT):あなたの前作『私の死の物語』(13)でも“死”は中心的なテーマとなっていましたが、今作『ルイ14世の死』(17)では、より焦点を定めて“死”そのものが映画の主題となっています。『ルイ14世の死』に関して、ジャン=ピエール・レオーが、かつてジャン・コクトーが語った言葉を引用して、「映画は死を捉える芸術である」と言った通り、“死”はとても映画的な主題であると言えます。例えば、ワン・ビンの『ファンさん』(17)というドキュメンタリー映画では、実際に死にゆく人が捉えられていました。ただ、『ルイ14世の死』ほど、“死”を活き活きと描いている映画は滅多にないのではないかと思います。それはその様にシナリオの時点から考えられたものなのか、あるいは15日間くらいの撮影とその後の編集の段階を通じてこのような作品になったのか、その辺を教えていただけますか?

アルベール・セラ:私は二つの要素を混ぜあわせようと考えました。まず、“死”というものは最後の瞬間で何も起きない、見えるものではありません。死に向かう瀕死の状態を、臨床的に、サイエンティフィックに描こうという気持ちがありました。ですから、その状態を臨床的に、言わば殺菌された状態で客観的に描こうというのが第一の要素です。そこに第二の要素、それはワン・ビンの映画にはないものですけれど、ファンタジー的な要素を混ぜようと思ったのです。すなわち、時代がバロックの時代でありますし、王様ですからかなりのファンタジーがある、そこには、宮廷があって宮廷の修辞学があります。この二つの要素が明確なコントラストをなすことで、映画が面白くなるのではないかと考えました。ワン・ビンの様に、ただ単なるドキュメンタリーで死に向かう人を捉えるだけでは面白くありません。(皮肉なことに)フィクションの映画では稀なことなのですけれども、フィクションの映画ですから劇的な部分が入ってきます。ルイ14世は、とても有名な人物ですから、普通であればそのフィクションの部分が映画の全体になるでしょう。それが(この映画では)フィクションに対して臨床的な描写が混じる、そして時代の持っているファンタジー、登場人物の持っているファンタジー、それから背景となっている場所のファンタジーが入ってくる、そこには造形芸術的なファンタジーも入ってきます。世界で一番権力を持っている国王という人物が死にゆく姿を描いている、しかもその人は自分が死にかかっているということが分かっているんです。

また、サイエンティフィック、科学的であると言ったのは、常にこのルイ14世という国王の視点で描いているからです。王はすべての場面に登場して、その周りで起きていることに対して情報を得ている、そして彼の頭の中で起きていることが見える、私達は言わば、観客としてその場に立ち会う証言者の様なものです。すなわち、宮廷人の一人としてあの王の寝室の中にいて内側からその様子を見ている。そして彼が考えていることも内側から分かっている、しかも客観的に観察をしている。他に主体があったとしてもその視点を混ぜることはしていません。全てを国王の視点で描いています。他の主体は存在するかもしれませんが、それはフレームの外に存在しています。国王は全てのシーンに出てきます、一瞬離れるところがありますが、観客が得る情報は全て国王が得た情報です。そのおかげで登場人物、主人公に対して、観客は実に近く自分を感じ、そして彼が考えていることまで分かる様な気がするのです。もちろんジャン=ピエール・レオーの演技のおかげでもあるのですけれども、国王の頭の中で何が起きているのか、頭の中で何を考えているのかが分かります。

『ルイ14世の死』
英題:THE DEATH OF LOUIS XIV

5月26日(土)からシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

監督・脚本:アルベール・セラ
脚本:ティエリー・ルナス
撮影:ジョナタン・リッケブール
美術:セバスティアン・ボグレル
衣装:ニナ・アヴラモヴィッチ
音楽:マルク・ベルダゲル
出演:ジャン=ピエール・レオ、パトリック・ダスマサオ、マルク・スジーニ、イレーヌ・シルヴァーニ、ジャック・エンリック、ベルナルド・ベラン

(c)CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

2016年/フランス・ポルトガル・スペイン/フランス語/115分
配給:ムヴィオラ

『ルイ14世の死』
オフィシャルサイト
http://www.moviola.jp/
louis14/index.html
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