OUTSIDE IN TOKYO
KALTRINA KRASNIQI INTERVIEW

アルノー・デプレシャン『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』来日記者会見

2. 私のメソッドでは、“読み合わせ”は一人づつの俳優と行います。
 アプローチの方法は俳優によって異なるのです。

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質問:監督はお一人で脚本を書くと伺っていますけれども、俳優との事前のやりとりを経て、俳優が脚本に協力するような余白もあるのかなと思いました。今回、マリオンさんやメルヴィル・プポーさんがそのような形で関わることがあったのであれば、それについて教えてください。
アルノー・デプレシャン:大体において、私の脚本は綿密に書き込まれています。私は、その方が、俳優が演技をする時にやり易いんじゃないか、より自由になるのではないかと思っているのです。他者によって書かれたテクストを演じる方がより自由になるのではないかと考えています。私のメソッドでは、“読み合わせ”は一人づつの俳優と行います。演劇の場合は、俳優全員が集合して読み合わせをしますが、私の映画の場合は、例えば、マリオンであれば、マリオンと私、一人一人と読み合わせをします。そして、その時の対話を経て、もう一度執筆に戻り、脚本の手直しを行うという形で進めていくのです。

アプローチの方法は俳優によって異なります。例えば、メルヴィル・プポーは、書かれた脚本のカンマ一つまで尊重するタイプです。今回の作品では長い独白のシーンがありますよね。例えば、甥っ子に向かって激しく怒りをぶつけるというシーンがありますが、ああいう長いセリフでも、彼は何一つ変えずに脚本を尊重するわけです。一方でマリオン・コティアールの場合はちょっと違うんです。彼女は、どうしてアリスは弟のことを憎んでいるのか?と問い掛け、私たちは話し合い、ひょっとしたら彼のことが怖いんじゃない?という風に、自分が演じる人物を理解しようとするんです。そうしたプロセスの中で、私たちはセリフを変更したりしています。マリオンの場合は、アリスという人物の心を探究する作業と言いますか、アリス自身がどうして弟に対してそのような感情を抱くのか分からなくなっているから、マリオンがアリスの気持ちになりかわって探究するという形なのです。私たちのコラボレーションは、俳優によって色合いが違ってきます。

質問:今回の作品を拝見して、顔のクローズアップが、イングマール・ベルインマンを彷彿させる、美しくて強いショットだなと感じたのですが、デプレシャンさんにとって、顔の微細なクローズアップを撮るということは、どのような意味を持つのか教えてください。
アルノー・デプレシャン:子供の頃、映画を見ている時に、何て素晴らしいんだろう!って感動することがありました。自分の顔よりも大きな顔がスクリーンの中に登場する、その顔が風景に見えてきたんです。写真の場合は、展覧会などでも、大抵の場合は自分の顔よりも小さい写真が写っています。でも映画の場合は、本当に大きなスクリーンに顔が風景のように広がっているわけです。ベルイマンは、私にとって、一番偉大な師匠と言っても良い、一日中、朝から晩まで彼のことを考えている、そのような師匠の一人です。ベルイマンから私が教わったのは、どんなに悲しい感情でも、忌々しい感情でも、あるいは怒りでも、嫉妬でも、ベルイマンの映画の中の人物というのは、そうした決して高貴なものとは言えないような感情でも、それを表現する勇気を持っているということなんです。そんなことは問題ではない、とベルイマンは言います。それは一つの道徳的な教訓です。悲しい表情をしているからといって、それはその人物の真相を言い当てているわけではない。人間というのは確かに意地悪な時もあるけれども、その人物の深いところというのは別にある、それは人間のごく一部の感情が出ているに過ぎない、人間というのはもっと複雑なものだ、ちょっと美しくはない感情があったとしても、どこかに気高い感情を持っている、それらは共存することが出来るのだということを、ベルイマンの映画は私の教えてくれたのです。


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