OUTSIDE IN TOKYO
DAVID CRONENBERG INTERVIEW

デヴィッド・クローネンバーグ:オン『イースタン・プロミス』

2. バイオレンス6分、台詞のやりとり84分の映画

1  |  2  |  3  

暴力的な世界を描きつつ、人間ドラマに、感情、愛を描いてますね。
特にギャング映画を撮る気はなかった。そんなお決まりのキャラクターっておもしろくないから。凶暴で暴力的なだけだと興味が湧かない。でも脚本の中心に家族ドラマと普遍的な物語があった。文化の衝突があり、一つのカルチャーが別のサブカルチャーを内包する。ロシア人は故郷の生活を再現するためにレストランを利用する。おかげでイギリス人っぽくならずに済んでいる。イギリスにいながら、ロシアらしさを維持できるのがおもしろい。

なぜ身体的な暴力にオブセッションを抱くのでしょう。
いや、僕は自分がオブセッションを抱いているなんて思ってないよ。『イースタン・プロミス』にしても、バイオレンス6分、台詞のやりとり84分だ。自分が暴力にとりつかれているとは全く感じない。今日の世界では、誰もが世界のどこかで起きている暴力のニュースに曝される。ネットやテレビの傾向のため、世界のどこかで起きている暴力を耳にせずに一日も過ごせない。それは常に目前にあり、実際に身近で体験しなくても、昔よりずっと敏感にその存在を感じることになる。僕は確かに、そういうので悪名高いと言われるけどね(笑)。

とはいえ、人がダイレクトに傷つきますね。
映画は哲学的で、芸術的な行動だ。人間の存在の主な要素は、人間の肉体だ。私は無神論者で、死後の世界を信じないし、死後に魂が生き続けることも信じない。信じているのは肉体だ。人間の生命を身体的に見つめている。だから映画で暴力を描く時に、自分が見たままに描く。つまり、人間の肉体に加えられるダメージ、それが人間の暴力であり、人間の肉体の破壊だ。だから暴力を、人間の肉体への破壊行為として描くことはとても自然なことだ。それ以外の描き方は逆にファンタシーやゲームになる。
殺し屋は、彼が一番弱い状態の時に攻撃することを選んだだけだ。もちろん丸裸で、丸腰の時ほど人が弱くなることはない。それがあのシーンを特別なものにしている。僕とヴィゴは、映画が色々な意味でリアルであるためには、裸ではない状態でやるわけにいかないと思った。いろんなカメラアングルで、私がカメラで常に局部をブロックしていたら、マヌケな状態になる。怖くなくなってしまう。だからあの撮影方法になるのは明らかだった。俳優が恐れれば、私にも制限がかかる。でもヴィゴはそれを恐れる役者ではない。

撮影は危険なために緊張感があるのか、裸で撮影していることがおかしくて、楽しくて仕方ない感じでしょうか。
僕の撮影現場では常に遊びの感覚がある。たくさん笑い、楽しんでやってる。でも同時にシリアスな要素もある。そういうシーンを撮影する時はクローズド・セットにする。セットにジャーナリストが入ることも、友達が入ることもない。そういう撮影はより集中力が必要だし、制限もかかる。でも複雑なアクション・シーンを撮る時はだいたいそうだ。ヴィゴが裸でいることで、微妙な緊張が走るのは確かだ。裸のセックス・シーンを撮る雰囲気とほぼ変わらない(笑)。でも撮影はあっという間に進んだ。何週間もかけて準備し、訓練も行い、何をするかも決めていたから、実際の撮影はほぼ2日しかかかっていない。複雑なアクション・シーンは、実際そんなに長くないから。

映画全体に武器がほとんどなく、刃物で斬りつけるシーンが多かったですが、それはリサーチの故ですか、監督の拘りですか?
芸術的な決断だ。実際、銃は使っていない。それは私の決断だ。最初の脚本にも銃を示唆するものはなかった。でもロシアのマフィアは銃を使うから、芸術的な誇張と言えるだろうね。ある意味、映画の中で人を殺す人間は、ただ殺すだけでなく、そのことで何かを示そうとする。人をナイフで殺すということは、ずっと肉体的でパーソナルなんだ。それだけ肉体的に近づいたことを示す。だからその人がそれだけ危険で、自分が望めば相手にそれだけ近づけるということだ。すぐ近くにいることと、誰にも止められないことを、銃ではなく、ナイフで見せることにした。

個人の狂気や妄想を描いてきた監督が、前作以降、より現実的なことを描くようになってきた気がします。それは監督の中でどんな変化があったのでしょう。
今は8年前に書いたオリジナルの脚本を直してるけど、SF映画だ。僕は常に実験を続けている。特に進化しているという感覚はない。人間の本質を、様々な側面から検証しようとしているだけだ。水晶を様々な角度から眺めるようなものだ。僕が扱うテーマは一貫していると思うけど、出方が違う。僕が手がけた初期のホラーから、『エム・バタフライ』、『戦慄の絆』、『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』を見れば分かるように、みんな違う。でも同じトーンとは言える。だから2本続けてギャング映画を手がけたのは偶然にすぎない。偶然そういう企画がやってきて、おもしろい企画だと感じたからやりたいと思った。本当に偶然だ。特に新しい方向を示すものではないよ。

『ヒストリー〜』は個人の物語という印象があったのですが、今回は社会背景というか、現実と関わっていると思います。社会派ともとれる映画は珍しくないですか?
確かにその通りだ。内向きでパーソナルな物語ではなく、社会の大きな部分を描くことに魅力を感じたのも確かだ。でもイギリスに住むロシア人たちを見て、外国の奇妙な文化の中でロシアらしさを再現しようとする試みは、『クラッシュ』や『エム・バタフライ』でも描こうとしてきたことと似ている。それはとても強く奇妙なサブカルチャーだ。何が言いたいのかは分かるけど。確かに違うし、またやらないわけでもない。ただどんな企画が来るか、資金や俳優にもよる。芸術的な進化に則って選択するものだと人は言うけど、映画ビジネスでは、映画を作るのは本当に大変だ。今までも大変だったのに、ますます困難になりつつある。作られる映画自体が少なくなってきているし。自分の映画を振り返ってみて、ある傾向や流れを読み取ることはできると思うけど、それも実は、5本の企画が流れた結果、たまたま資金調達できた1本を撮ったということかもしれない。芸術的な意図だけでなく、機会を捉えただけかもしれない。

1  |  2  |  3