OUTSIDE IN TOKYO
KUROSAWA KIYOSHI INTERVIEW

小森はるか『息の跡』インタヴュー

2. (お蕎麦屋さんでは)カメラを持っていたら聞けない話も聞かせてもらってたんだなと
 思っています

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OIT:ボランティアといっても色々な関わり方がありますが、小森さん(と瀬尾さん)の場合は、生活を移したんですね。
小森はるか:2012年の春に引っ越しをしました。でもそれはボランティアという意思ではなかったです。自分の生活のためにやっていました。ボランティアをしていた時期は、東京から通っていた時だけで、陸前高田に引っ越してからは、暮らすことが中心でした。どうやって自分の生活を成り立たせるかということが制作にも重要だったし、そのお蕎麦屋さんで働いていた時間は、全然撮影をしてないんですけど、店長やお客さんと毎日何気なく話すことから、どんな街があって、どんな人がいて、どういう生活があったのかっていうことを、教えてもらったという感じがします。カメラを持っていたら聞けない話も聞かせてもらってたんだなと思っています。そこで蓄えたものをもって、休みの時間に街に出て行くと、今までは被災した風景にしか見えていなかったような場所が、人のいた息づかいがたくさん残っている場所に見えてきて、そういう目には見えない記憶を撮りたいと思いました。その両方で3年間を過ごしていたんだと思います。

OIT:引っ越す前から撮る気でいたのですか?
小森はるか:一番最初に東北へ行ったときは撮影に行くつもりはなくて、純粋にボランティアで人の役に立ちたいと思って行ったんです。プロでもないし、報道も出来ないからカメラを持って行ってもしょうがないと思ってた。それが、避難所のボランティアをしている時に出会った方から、「自分は気持ち的に辛くて故郷の街を見れないし、そこへ行く足もないから見に行けないけど、カメラを持ってるんだったら代わりに撮っておいてほしい」って言われて、それ以来、自分たちの役割として記録するとか、誰かの代わりに撮っておくみたいなことなら出来るかもと思うようになったんです。瓦礫撤去のボランティアも力がなくて役立たずで、そういう時にあなたたちがやることはカメラを持つことだっていう風に教えてもらった、それは瀬尾と二人で経験したことだったんですけど。彼女はスケッチ、文章、あと写真も撮る作家なので、私はそれを映像で記録していく、二人で一緒に同じ人の話とか風景を書き留めていくことを始めました。

OIT:そこで撮り始めて、最初から“たね屋の佐藤さん”がいる訳じゃなくて、初めは色々な方々や風景を撮っていったっていう感じですか?
小森はるか:引っ越す前には陸前高田だけでなく、沿岸のいろいろな町を移動しながら記録していました。引っ越してから、最初はアーカイブ事業の記録スタッフとして働きました。陸前高田で、オーラルヒストリーの記録をするために、お話し聞かせてくださいとか、それを撮影させてくださいと町の人たちに会うようになって、その頃佐藤さんにも出会いました。佐藤さんの生活を撮りはじめてからも、同時並行で風景や人々の記録はずっと続けていました。瀬尾と二人で話を聞きに行ったりすることもあるし、それぞれに続けているものもありました。佐藤さんに関しては私一人で通うようになっていきました。

OIT:平日は朝から夕方まで仕事をして、夜とか土日に撮っていったと。
小森はるか:そうですね、週1日の休みの日に。定休日に撮影にいったり、お昼休みが1時間あるから、その合間に佐藤さんのところへ顔をだしたり。本当にその程度です。

OIT:素晴らしいですね。佐藤さんがやっていたことと似てませんか?たね屋の仕事をしながら文章を書く、フルタイムでそれをやっている訳じゃなくて、生活をしながら時間を捻り出して、やるべきことをやっていったっていうことですよね?
小森はるか:そういう感じだと思います。佐藤さんには全然敵わないですが。

OIT:やはり3.11ってみんな凄く傷を負ったと思うんですね、それをこの映画が、そんな意識はなかったかもしれないけれども、癒してくれてるっていうか、それを凄く実直に誠実にやっているところに凄く心を動かされました。なかなかそういう映画はない。ご自分で作っていて、そこまで感動させようという気はなかったんですよね(笑)?
小森はるか:なかった(笑)。



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