OUTSIDE IN TOKYO
KUROSAWA KIYOSHI INTERVIEW

黒沢清『ダゲレオタイプの女』インタヴュー

3. 最初から幽霊である幽霊と、途中から幽霊になってしまう幽霊と、2種類の幽霊が楽しめる

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Q:今回の幽霊ですけれども、幽霊がこんなにも生々しいというのは、映画の歴史でもそんなにないことなのではないかと思ったのですが。妻(ヴァレリー・シビラ)の幽霊にしても、マリー(コンスタンス・ルソー)の幻影といいますか、幽霊といいますか、にしても実に生々しいんですね。そして、それぞれの幽霊で描き方が違いますね。
黒沢清:まあ、あれは明らかに幽霊というしかありませんが、それはそうなんです。これは、昔、このシノプシスを書いた時からのひとつの狙いだったんですが、日本の古典的な怪談ですと、「四谷怪談」が典型ですけれども、幽霊って、最初は幽霊じゃないんですよ。生きた人間として普通に別の生きた人間と関係を持っていて、ある時、死んじゃう。幽霊になって、そこから生きた人間と幽霊の関係というふうに変質していくんですよね。この形式って、恐らく西洋にはほぼないんです。最近の日本のホラー映画でもほとんどない。西洋のものや、最近の日本のホラーは、物語が始まったら幽霊は最初から幽霊、主人公がある屋敷にやってくると、何か妖しげな人がいる、どうもそれが幽霊だったとか、百年前に生きた人とその幽霊はあくまで最後まで、ずっとその関係は変わらないままである、というのが多分西洋の幽霊だと思う。『リング』(88)の“貞子”なんかもそうです。それで、この二つを合体させたかったんですね。最初から幽霊である幽霊と、途中から幽霊になってしまう、日本の怪談映画に出てくる幽霊と、2種類の幽霊が楽しめるようにつくってあるという(笑)。それが今回の特徴でしたので、お母さんは、かなり幽霊然とした、最初から幽霊である、お母さんの幽霊と、最初は生きていて、途中から幽霊になってしまうマリーとは大分違うんだとは思います。

Q:終盤に出てきて、遺影の写真撮影を依頼するお婆さんが、「死はまぼろしですよ」という台詞を言って去って行くところが、凄く映画のツボをついているなと思ったんです。死んでいる人が”まぼろし”であるということと、生きている人ももしかして”まぼろし”なんじゃないか、って思わせるような台詞であるし、映画であるなと思ったんです。
黒沢清:ええ、そう言って頂けるといいのですが、日本語だとああいう台詞は言いづらいかもしれないんですが、まあ、字幕だと上手くいったのかもしれません(笑)。フランス語でもほとんどそのまま言ってるんですけど、無理なく言えたようなんでホッとしていますけれども。

Q:「安心しなさい」という台詞なんかもとてもいいですよね。
黒沢清:そうですね、あの台詞は、へんな言い方ですけど、結構素直に、僕の実感から出て来た台詞です。深い文学的意図とかがあるわけではなくて、僕もまだ、そこまで老人にはなっていなんですが、死んでしまったらどうなるんだと、そんなことはわからないわけですが、そのわからなさでジタバタしていたのは若い頃だったなと、まあ、ジタバタはいつもしていますが、年を経るにつれて、死は、意外に今存在している延長上の何かであって、何もジタバタするようなものじゃないんじゃないの?っていう、それで通常みんながジタバタしてしまう”死”というものは、今生きている人が勝手に作り上げた”まぼろし”みたいなもの、本当に死にゆく人にとっては、あの”死”っていうのは”まぼろし”みたいなものかなあ、と思ったりするんです。

Q:それ故にといいますか、ステファン(オリヴィエ・グルメ)はとてもジタバタするんですね。
黒沢清:そうですねぇ、とはいえ、現実には目の前に死を突きつけられると、それはまあ、然う然う心安らかではいられないと思いますけれども、こんな僕も、知ったようなことを言えるのは、何本もホラー映画を作ってきたからです(笑)。



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