OUTSIDE IN TOKYO
Marco Bellocchio INTERVIEW

マルコ・ベロッキオ『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』インタヴュー

2. どの映画も、淡々と冷めた気持ちで撮ったものなどひとつもなく、
 毎回のめり込むようにして撮っている

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OIT:『夜よ、こんにちは』といったこれまでの作品でも、あなたは政治や社会的な状況を描きながら、そんな環境の中での善と悪を判断する人を描いてきたようにも思われます。この映画もそのような設定と言えますか?
MB:私が映画的におもしろいと感じて取り組むもの。それはその2本の映画でも、確かに大きな歴史を扱っているわけですが、必ず、人間ひとりひとりの立場から見たいと思っています。『夜よ、こんにちは』の場合は基本的に、ずっとひとつのアパートに寄り添っています。その史実に関する様々な情報がテレビから入ってくることで、そのアパートの中で、私たちが知っている十把一絡げ的な人間像が見えなくても、(実際は)彼らにも迷いがあり、心の内に矛盾が生じていることをしっかり描けると思ったのです。そして今度の映画でも、もしかすると違う見せ方も出来たかもしれないけれど、常に彼女に寄り添っていたいと思いました。ただし、そうすることで、もちろん、大きな絵が見えにくくなるので、やはりさっきのように、映画を使って、大きな歴史に小さな情報が入ってくる様を描きたかったのです。

OIT:人々がよく知る大きな絵から、より小さな絵へ入っていく手法や興味は初期作品から一環して感じてきたものと言えますか?
MB:私のデビュー作の話が出ましたが、実際、どんな芸術家にも自分のスタイルというか、好みがあるわけで、(私の場合)映画を大きな画面から撮り始めることがそれほど好きではないのです。私が基本的に好きなのはクロースアップで、主観性を信じているところがあります。なので、日本ではまだ公開されていないと思いますが、孤児院を舞台にした映画を撮っています。そこでも、基本的にとても小さな話が展開されながら、(孤児院の)庭でピオ12世の葬式の映像が流れます。私はそうした要素を混交させるのが好きです。大きな歴史と、その時代の孤児の生き様のようなものを。(だから)それはもしかすると、デビュー作の頃からあったのかもしれません。まあ、そのデビュー作はもっとこじんまりとした話でしたが(笑)。


OIT:でも、そもそも映画が果たす役割、つまりシネマの役割とは、そんな大きな絵の中で小さな個人の主観的な物語を語ることでもあると言えます。それが監督の役割だと思いませんか?
MB:監督にとっては決して最初から計算があるわけでなく、あくまで内側から出てくる欲求みたいなものだと思います。やはり今回の場合、あれだけ大きな歴史のうねりを全て描き切ることなど(到底)できないわけですし、偶然、あのような史実を知った時にどうしても描きたいと思うことから始まっています。最初から計算があるわけではないのです。それよりも、やはり小さなところから…、というより、必ずその裏に(人が)生きている時代があるわけで、それを裏で描いていくことはずっとやってきたことですし、興味のあることだと思います。それはいつでも、ふと自然に生まれてくるものなのです。

OIT:この映画が監督の最高傑作なのではないかという呼び声が高いわけですが、ご自身の手応えとしてはどうですか?
MB:はっきりした答えになりませんが、どの映画でも、淡々と冷めた気持ちで撮ったものなどひとつもなく、毎回のめり込むようにして撮っているものです。なので、どれがどうとは言えない(というのが答えです)。ただ、(映画は)集団芸術ですから、様々な要因があった上で、もちろん最終的に監督が選ぶわけですが、すべからく上手く行くとは限らないわけです。監督として、私がこれまで幸運だったからかは分りませんが、比較的どの映画も満足しています。だから結果的に冷めたことなど(一度も)ないと言ったのと同じ意味で、これが傑作かどうかともはっきり言えないのです(笑)。


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