OUTSIDE IN TOKYO
Marco Bellocchio INTERVIEW

マルコ・ベロッキオ『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』インタヴュー

3. イタリア映画祭、上映後のQ&A

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イタリア映画祭にて『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』上映後に行なわれた、観客とベロッキオ監督のQ&Aを以下に掲載します。

Q(観客からの質問):今回観た『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女(原題:”Vincere”)』は今までのどの作品にも増して、観た後に茫然自失してしまったというくらい感動しました。質問は若干、本筋からずれてしまうかもしれないのですが、前半に決闘のシーンが出てきて、また後日上映された『母の微笑』という映画の中でもやはり決闘のシーンが、少し形は違いますが、非常に重要なファクターとして出てきますが、実際、あのような決闘みたいなものをイタリアの国内で本気で行っている人たちがいるのかと、『母の微笑』を観た時に生じた疑問です。カリカチュアとしてあえてそういうものを出したのか、それとも実際、現代にもあのような“ばかばかしい”ことを行っている人たちがいるのかという、その辺をちょっと聞いてみたいと思いました。
MB:『母の微笑』の場合は伯爵が主人公に対する挑戦をあおってやったわけですが、この映画の場合で、ムッソリーニの時代には実際に決闘が行われていて、ムッソリーニもいくつかの決闘をしているわけですね。この映画の中ではそこまではっきり出せなかったのですが、実際に行われた決闘の中の一つの相手がテレーネスという社会主義者で、ムッソリーニはあの時はまだナショナリストで、ファシストにはなっていなかったのです。最初の方では社会主義と決別というか、その対立が描かれていて、その象徴としても描かれているわけです。でも当時ムッソリーニの時代にはイタリアでも行われていましたし、ヨーロッパ全体でも決闘というのは行われていました。多くの場合、決闘というのはシンボリックな意味合いしかないのです、この場合は実際にお互いがお互いを殺そうとしていたわけです。

Q:とっても素敵な作品で、さきほど質問された方と同じく圧倒されたのですが、特に(原題の)『Vincere』というタイトルについて、やはり勝利を目指していくというと、どうしてもそこに男性(性)が社会で強調され、そうなるとそれが弱い者を抑圧していく構造が見えて、男性(性)が時に人々を高揚させて暴力の方へ向かっていってしまうことをとても感じたのですが、そのタイトルと男性(性)との関係性について監督が込められたことを少しお話しして頂きたければと思います。
MB:『Vincere』というのは何よりもファシズム時代のスローガンだったわけです。一番多く使われた言葉で、勝つか死ぬか、勝利か死かと言われていたわけですが、そういう意味でももちろん使いましたし、あとグラフィックで文字の強さがあるんですね。もう一つには、実際、常にヴィンチェレ、ヴィンチェレと言っていたわけですが、この映画は敗北の物語でもあるわけです。というのはイーダ・ダルセルという女性がいて、彼女は人生としては負けるわけですが、最終的には彼女の強さや、勇気をずっと貫いたことに対して、それで勝ったとも言えると思うんですね。ですからムッソリーニはむしろ、逆に最後は敗北したとも言えるのだと思います。

Q:非常に素朴な質問ですが、イーダとムッソリーニの関係が始まって以降のストーリーは非常におもしろかったのですが、まずイ−ダと彼がお互いにどこに惹かれて愛人関係になったのかというのが見えなかったのです。
MB:愛は盲目と言います。ムッソリーニは有名な誘惑者だったわけですが、彼らが出会った時代というのは、ムッソリーニが社会主義者ではなくなって、「アヴァンティ」の編集から離れた時だったんですね。それで新しく「イル・ポポロ・デ・イタリア」という新聞を作ろうとしている時で、ある意味ちょっと自由だったのです。そこで狙ってか、(彼女は)自分の資材を全部投げうって彼を援助しようとするわけです。もちろんイーダ・ダルセルにとっては全部自分の人生をかけた愛だったわけですが、ムッソリーニにとっては多くの愛の一つでしかなかったわけで、擬似的な愛でしかなかったわけです。でもイーダ・ダルセルは自分が2人目だということに気付くことが出来ず、そのままずっと戦うことになり、ある意味、自滅的な愛で、悲劇的な結果を生むわけです。そういったかたちで彼らは出会ったことが悲劇だっだのだと思います。

Q:先ほど『Vincere』という文字の強さのお話があったのですが、画面で何度か強調して、わざと文字を浮き上がらせていて、オペラの歌だけでもいいと思うところにもあえて文字を何度も出していました。ひとつは新聞社というのがあるのか、それともポップ・カルチャー的に茶化しているのかなと個人的には思ったのですが、あえて文字を何度も出す演出をなさった理由を教えてください。
MB:原題の問題ですが、その文字を使ったことは、この映画が未来派のメロドラマというかオペラという定義をされているのです。実際にはメロドラマとオペラと未来派。それは未来派の考え方とは対立する、相反するものの関係ですけど、それを一緒にしたかったのです。特にあの時代は、未来派というスローガンをばんばん使うことで有名だったので、そのかたちを使いたかった。ですから、その2つを融合させてアイーダの音楽を使って『Vincere』を強調するかたちにしようと思ったわけです。それと、あの時代は実際、非常に前衛的な芸術運動があったわけですし、その後キュビズムやダダイズムが生まれる時代だったわけで、そういう意味でも使いたかったというのがありました。

Q:最初からこの作品は色々なニュース・フィルムが引用されていて、作品自体がとても色を落としてあるし、雨の降り方や雪の降り方や光の入り方も芸術を超越したような世界で、非常に印象深いのですが、そうしたオブセッションに主人公たちは囲まれ、対峙しながら対決しながら、自分もそういうものと戦っていくわけですよね。そしてムッソリーニは即物化していき、最終的に役者としてもムッソリーニは出てこなくて、イメージしか出てこなくなって、イメージと化す、という感じです。逆に女性の主人公は闘っていって、対照的な存在になっていくわけですが、そういったことは意図されていたのですか?
A:この映画での使い方はひとつの危険でもあったわけです。描き方のスタイルの問題で、最初はムッソリーニが出てくるわけです。ムッソリーニが途中でいなくなり、トレントの映画館にいる時に映像として現れるわけですが、それは本物のムッソリーニなんですね。それまでのムッソリーニはフィリッポ・ティーミという俳優が演じていたわけですから、そういう意味で非常にリスキーだったわけですが、でもそれをやってみた。それで実際のムッソリーニを見て今度は子供が偉くなって、フィリッポ・ティーミが最後に子供役として出てくるわけですが、それが父親を真似する役になるわけです。実際にはリスキーだったのですが、そういうかたちをとってみたかったということでそのような選択をしたのです。

Q:簡単な質問です。アレッサンドラ・ムッソリーニ(ムッソリーニの妻)は何か言ってきましたか?
A:アレッサンドラ・ムッソリーニはテレビ番組で、映画をまだ観る前にイーダ・ダルセルについてあまり上品ではないコメントをしたようです。ただ、映画が出てからはムッソリーニ家から何のコメントも出なかったということは、最初にも言ったように、この映画が基本的に事実を描いていますので、もちろんそこから発展している部分もありますが、基本的、本質的な部分では事実ですので、何も言うことはないのではないかと思いますし、彼の息子が精神病院に入って死んでしまったとか、そういうのも事実です。ただ最後の方でムッソリーニの息子が、ムッソリ−二のドイツ語の演説を真似する場面がありますが、あれはもちろんそういうことが実際にあったのか分らないわけです。でも基本的にはそういうこともあり得たことなので、、、まあ、そういうことじゃないかと思います(笑)。


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