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Press conference

マーティン・スコセッシ『沈黙 –サイレンス–』来日記者会見全文掲載

3. 信ずることと“疑う”こと、その葛藤が創作意欲を掻立てる

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Q:原作を読んでから映画化まで28年を要したということですが、その間に映画化への情熱というのは高かったり低かったり色々曲線があったと思います。映画化への情熱が非常に高い時にタイミングが合わなくて出来なかったということもあったと思われますが、実際そうだったのでしょうか?それと、もしもっと若い時期に映画化をされていたら今と違った作品になっていたでしょうか?
マーティン・スコセッシ:そうですね、若い頃に撮っていたら全然違う作品になっていたでしょう。漸くちゃんと脚本として構成して書いて、映画化に挑戦してもいいかもしれないと本気で思うようになったのは、『ギャング・オブ・ニューヨーク』を撮っていた2003年頃なんです。それまでは映画化権は持っていたものですからその権利は失いたくなく、なかなか書けてないんだけれども権利元にはもう出来てるからなんて言って、待たせていたわけですけれども、その結果、イタリアの権利者から訴訟を起こされて裁判沙汰になった。そういったいろんな問題があったけれども、企画はずっと続いていきました。そして2003年頃と先ほど申し上げましたが、この頃、私生活でちょっとした変化がありまして、再婚して、小さな女の子が生まれました。やはり年老いた段階で父になったわけですから、若い頃に父親をやるのとはちょっと違うんですね。そういった自分の私生活の中での変化も、いろんな可能性を押し広げるきっかけになりました。
Q:1988年の『最後の誘惑』は本当に世界中で議論を巻き起こしましたけれども、『沈黙—サイレンス—』はクリスチャンの間でもとても賞讃されています、その違いはなんでしょうか?また、監督は本作を無償で撮られたとお聞きしました、スター俳優もいつもより低いギャラで出演したと聞いています。その辺りは1988年の経験があったからなのでしょうか?
マーティン・スコセッシ:『最後の誘惑』は、キリスト教の理念やコンセプトにまつわるシリアスな探求であったわけですが、クリスチャンの間では評判が悪かった。その時、色々な宗教団体に向けて上映会をやる中、エピスコパル教会で上映をした際にポール・ムーアさんという大司教が声を掛けてくれた。彼は、『最後の誘惑』を気に入り、この作品の問うているところが非常に面白いと言ってくれた。そして、あなたに差し上げたい本がある、この小説は信ずることとは何なのかということを問うている作品です、と言って、小説「沈黙」を私にくれたのです。『最後の誘惑』が公開されて、様々な議論が巻き起こる中で、私は自分の信仰心というものを見失いかけいた。いま一つ納得いかない、何かおかしいという感覚があったわけです。そんな時に、この「沈黙」を読んで、もっと深く探求しなければならないということを教えられたのです。遠藤さんが探求されたように、私ももっと深く掘り下げていって答えを見つけなければならないと思いました。そういう意味でこの作品は他の作品よりも重要と言ってしまっては、他の作品に関わった人々がさほど重要でないというつもりは毛頭ないので、ちょっと語弊がありますが、やはりこの決定的な問いにひたすら没入していく作業であるという意味において、私にとってもの凄く重要な作品です。
『沈黙 —サイレンス—』のストーリーは、キリスト教の教義についてのものではなく、信ずること、そして疑うこと、これが非常に重要だと思うのですが、ちょっと分からなくなって疑いを抱いたりすること、そうした内面的な葛藤について描かれていて、非常に包括的なものです。誰か権威的な立場ある人物が、君は疑うのか、それなら君に価値はない、ということを言うような物語ではない。むしろ、私たちは、“すべてを疑う”存在です。事実、人生なんて疑念だらけですから、そういった気持ちにむしろ創作意欲を掻き立てられたわけです。


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