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Press conference

マーティン・スコセッシ『沈黙 –サイレンス–』来日記者会見全文掲載

4. 現代のような物質的な社会においてこそ、
 精神性について真剣に考え、議論をすることが必要だ

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Q:2017年のこのタイミングでの公開となったのは偶然というところもあると思うのですが、ここ1〜2年は政治的にも、あるいは文化的にも大きなうねりが起こった時期だと思います。この時代にこの作品、人間の弱さとは何なのか、あるいは信ずることとは何なのかということを問う作品を公開したということに対して、どのようにこのメッセージが響くかということを、監督ご自身は意識されていますでしょうか?つまり今の世相だったり、時代背景みたいなものとこの作品がどのようにリンクするかということに対して意識されていますでしょうか?
マーティン・スコセッシ:私としては、時代に対して響くことを願っています。否定するのではなく、受け入れるということを描いている映画ですので、それも伝わるといいなと思っています。まさに映画の中で、キチジローが「このような世の中において弱き者が生きる場はどこにあるのか?」と問うたように、この作品は弱き者をはじくのではなくて、彼らを受け容れ、抱擁するものでなくてはならない。弱き者が強くなっていくこともあれば、そう上手くはいかない場合もある、しかし、人が人として生きることの真価とは何なのだろうかということについての議論を、この映画は少なくとも触発することが出来るのではないか。必ずしも、社会に生きる誰もがバットを振り回すことが出来るような、強き者でなければならないということはない、強くあることが、文明を維持していく上で唯一必要な手段であるということはないのです。
社会からはじかれた者や除け者にされた者は、確実に存在するけれども、そうした人々を人として知ろうとすること、これはひとりひとりの個人から始まることだと思います。新約聖書の中で私が一番好きなのは、イエス・キリストが卑しい人達に常に寄り添っていたということです。彼は、取り立て屋、娼婦、どうしようもないチンピラたちと共にあり、決して権力者と共にいたわけではない。そうした汚らわしきを受け入れ、そういう人達の中にも、神聖になっていく、善きものになっていく可能性を見いだしていた。
今の世の中に関して言えば、やはり一番危険にさらされているのが若い世代の皆さんだと思います。つまりここ最近、5年間ほどの間に生まれた子どもたちは、勝者が歴史を勝ち取っていく、世界を制覇していくということしか見ていない。そうなるまでには、様々な文脈があったけれども、それを飛び越えて、その現実しか知らないというのは悲惨な事態です。それしか知らなければ世界のからくりとはそういうものだと思ってしまう、それではいけないと思うわけです。
そして、今は非常に物質的な世界、技術がかなり進んだ世界になっているわけですが、そういう世界においてこそ、人の何かを信じる心、そういったものを求める精神性について、真剣に考え、議論をすることが必要だと思います。現在の西洋社会においては、そうした精神性について真剣に考えるという風潮にはなかなかなっていない、時には、そうした話を小馬鹿にしたりすることすらあると思うけれども、私としては、古来からの西洋世界の宗教的基盤を築き上げて来た衝動というものが、今は一つの革新を遂げつつあるのではないかと思っています。まだ新しい世代との遭遇にまでは漕ぎ着けていないが、精神性の大きな変革が起こりつつあるのではないかと思うのです。


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