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OLIVIER ASSAYAS INTERVIEW

オリヴィエ・アサイヤス:『クリーン』『ノイズ』、そして、現在撮影中の新作について語る

4. 『クリーン』は、人々の許しの許容力を問う映画だ

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これはより個人的な質問になるかもしれないけど、マギーとは明らかに一緒に時間を過ごしてきて、プライベートの生活でも彼女が歌うのを耳にしてきたと思うんだけど、彼女の歌にはずっと魅力を感じていたのかな?
いやー、別に彼女がシャワーでいつも歌っていたわけじゃないからね(笑)。彼女が実際に歌うのは聞いたことがなかった。でも彼女がそれを少なからず夢見たことは分かっていた。そうしたいと思いながらも、彼女自身が自信を持てなかったために。そして明らかに、彼女も他の香港の映画スターが歌うようなものを歌う気はないからね。ほとんどの香港映画スターはポップ・シンガーで、彼らは広東語ポップスみたいなものを歌う。それはカルチャーではない。彼女がふだん聴いているものとも違う。僕らはもちろん一緒に住んできたから、彼女の音楽のテイストは知っている。それはイギリスのインディー・ロックの流れで、それもあって映画をその方向、その空気感に持って行こうと考え始めた。だから彼女が、僕が『クリーン』で使いたかった音楽に共感してくれるのは分かっていた。同時に、物語を信じられるものにするためにも、彼女はそれを自分自身のものと感じられる何かが必要だったんだ。

音楽という点では、あなたが監督し、同じようなミュージシャンを起用して企画したイベントを記録した『ノイズ』との繋がりを感じるんだけど。その2つはどう繋がったの?どちらが先?
どう言えばいいのかな。『ノイズ』は『クリーン』のすぐ後にできたものだ。それはフランスのブルターニュの音楽フェスで、フェスの一夜のプログラミングを丸ごとアーティストに委ねるという考えから始まった。まず、彼らから電話があって。僕に連絡してきた理由は『クリーン』を観たからだと思う。『クリーン』の音楽的要素が強かったために、フェスの一夜を僕に企画させるインスピレーションが湧いたんだと思う。それが最初の繋がりで、ミュージシャンの招待という点では、まず、自分が幻想を抱いてきたバンドを選ぶこともできた。ずっと聴いてきて、自分が会ってみたいと思う人たちを。それか、今まで一緒に仕事してきて、すでに知っている人たちを呼ぶこともできた。それで、彼らを同じステージに入れて、どう組み立てていくかを考える方がしっくりきたんだ。それで明らかに、最初にソニック・ユースを招いて、その枠組みの中で好きなように何でもやってもらうことを頼んだ。そして明らかに、メトリックも加わってほしかった。彼らはカナダのモントリオール出身のバンドで、僕の映画の前は全く無名だったけど、突然フランスで有名になったんだ。僕の映画に出た小さなパートに人が反応したんだ。それでフランスのレコーディングの契約も結んだ。彼らのアルバムも出た。そして有名になった。それもあって、彼らとのコラボレーションをもう一歩進めてみるのもおもしろいと思った。『ノイズ』のおもしろいところは、自分の手で撮影する機会ができたこと。最初から、僕はその夜全体を自分で撮って、そこから何か映画を紡ぎたいと思っていた。自分でカメラの一台を回したかった。回すのも好きなんだ。小さなDVカメラで抽象的に遊んで。それでも今までは映画やドキュメンタリーという形になるものをやる機会がなくて、僕にとっては、ある意味、実験になると思った。でも僕にとって、それをもう一歩先へ探求できる機会であり、映像と音楽との関係において、より親密にできるという意味で、自分のカメラで身体的に関わりたいと思ったんだ。そこから始まったんだけど、同時に、プロジェクトの話し合いをしている、それは特に(ソニック・ユースの)キム(・ゴードン)とサーストン(・ムアー)とだけど、そんな時に彼らが「僕らのステージでバックに流すものは何かないの?」って聞いてきた。僕らのセットで背景に映写できるものはないのか」って。 そして僕は「特に考えてなかったけど、何か作ることは出来ると思うけど」と言ったんだ。それで自分が実験的にDVで撮ったものを編集し始めて、それがすごく楽しかったんだ。僕は山のようにあったテープを探って、何かを構築し始めた。そして自分がある方向に進み始めていることに気づいた。だから僕にとって、ある意味、実験的な作品であり、本当の実験をするために、今まで試せなかったこと、今まで使ったことのない道具を使いたいと思った。でも同時に、ただ僕がずっと興味を持ってきた領域を探求し、今まで機会のなかった、映像と音楽の繋がりの探求を可能な限り、追求してみたいと思ったんだ。

『クリーン』に戻って、マギーの役柄に対して、なかなか共感できなかったという意見も聞いたんだけど、それは意図的なことだったのかな?
もちろん、そうじゃないよ。僕は彼女に、できるだけ落ち着いて、抑制して演技してほしいと伝えた。感情というのはそう表現されるものだからね。この映画は、感情が皮膚の下に隠されている感じで、表立って表現しなくてもいいものだ。マギーが映画で演じるエミリーというキャラクターは、まあ、実際はあまりいい人として表現されていない。彼女は強気で、文句を言うし、声を荒げる。彼女は自虐的でもある。でも映画は、悔い改めることの可能性を観客がどれだけ受け入れられるかということでもある。彼女が自ら作り出し、生きている地獄から自分自身を救う方法があるということ。そして観客がそのキャラクターとどう繋がれるかも、彼女をどれだけ許せるか、彼女が自分を救うことができるということを信じる心の準備があるかということだ。彼女は自分の苦しみと共に生きることを内に溜め込む気質がある。自分の不安と共に生き、苦痛と共に生き、それを大げさに人に見せない。そして彼女に対して共感できるなら、彼女の気持ちが分かるし、もう彼女に救いの余地がないと考えれば、まあ、彼女を好きにはなれないだろう。彼女の悔い改める気持ちに真実を感じることができないからだ。それは映画自体よりも、個人の救いへの許容量として、人間的な価値観や信じる気持ちがどれだけ持てるかだと思うんだ。

あなたは自身のミューズとしてマギーと暮らしてきて、映画作家のクリエイティヴィティとしてはその距離がどれだけ影響してきたと思いますか?個人の人生が離れていく中で、それがよくなったのか、悪くなったのか?
それはとても答えにくいことだね。僕は自分の生活と映画作りの間にはっきりとした線を引いているのだから。僕は自分のプライバシーをとても守ってきた。そして双方がとても離れた世界という感覚で考えてきた。ひとつの世界は、僕が作る映画だ。僕がそれをどのように作り、映画を作る時の人たちとどう仕事するかに拘ってくる。僕は映画を作り始めてから、同じコラボレーターたちと仕事をしてきた。つきあいも長い。編集者ともアートディレクターともアシスタントたちとも、プロダクション・マネージャーや、もちろんカメラマンとも。でも僕はふだん彼らにあまり会うことがない。映画の準備、撮影中、編集段階とかでは何ヶ月も生活を共にしている状態だけど、そのプロセス以外ではほとんど会わない。それはたぶん、僕がいつも日常生活と交わらないようにしているからだろうね。もちろん、明らかに映画作りの大きな部分を占めている、特にマギーのような人と一緒に住んでいると極端に複雑だけど。彼女はとても重要な影響だ。でも奇妙なことに、また彼女と一緒に作った2本の映画———ひとつは『イルマ・ヴェップ』で、僕らが一緒になる前に作り、もう1本の『クリーン』は、僕らがもう離婚しようとしている時に作った。分からないけどね。でも彼女がミューズであるかという点ではーーーマギーは、僕ら2人が一緒にいる間、僕の人生の最も重要な影響であり、彼女は僕にとても多くのものをもたらしてくれた。彼女が与えてくれたものの多くは僕の中に残り、彼女にとっても同じだといいとうれしい。『イルマ・ヴェップ』はコメディでありながら、詩でもあり、抽象的で、ある概念を扱っている。それは何百という理由から、人が女優にインスパイアされる可能性を映像化したものだ。それからどういうわけか、『クリーン』はその小説的なバージョンだ。実際に彼女にインスパイアされて作った映画なんだ。 僕は絶対にーーーというか、『イルマ・ヴェップ』と『クリーン』は、僕の作品、僕のキャリア、僕のインスピレーションでは本質的な2本であり、それらの映画はある意味、マギーのものでもある。僕の映画には違いないけど、彼女の映画でもある。それらは完全に彼女にインスパイアされたもので、ミューズであるという意味で、まあ、その言葉の意味を信じているか分からないけど、たぶんマギーはその2本の映画、僕の現在の人生に関して言えば僕のミューズに限りなく近いだろうね。
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