OUTSIDE IN TOKYO ENGLISH
PEDRO COSTA INTERVIEW

ペドロ・コスタ:映画が震える瞬間

2. 全てのヴェントゥーラのために

1  |  2  |  3  |  4

その観客の視点はヴェントゥーラと重なるわけだけど、彼はどこで見つけたのでしょう。
彼は既に存在した。彼はあの場所にいた。それがおかしなところで、前の映画を撮った時も彼はあそこにいた。それである朝、彼をキャスティングし、夜には出演してもらった。彼は奇妙な、謎めいた男で、撮影のために到着し、会うとおはようと挨拶してくれる。なのに、別の日には気難しかったりする。とてもやさしく、謎に満ちている。それに危険だ。彼は背が高く、がたいも大きく男らしい。だから映画を2本撮り終えて、次に何かをやろうと考えた時、今度はその場所の過去の物語を語りたいと思った。最初の男、最初の小屋…、全てがどう始まったのか。すぐに彼のことが浮かんだ。周りの人に聞いて歩いてから、彼に直接アプローチした。僕はまず聞いた。彼はいつ、ここへやってきたのか。どんな物語があるのか。その前の秘密を少し知りたかった。みんなが言うには、彼は最初に来た男たちの一人だった。彼は当時19歳だった。ティーンエイジャーの彼も、美しく、肌の黒く大きかった。いつもポケットにナイフを忍ばせているような男だ。女が惚れる男(笑)。タフで、パワーに溢れ、リスボンに出稼ぎに来た若い移民の一人だ。それが71年頃で、その3年後の73年か74年に事故に遭った。仕事中の事故だ。彼は作業中の建物から落下した。落ちた彼は、そのまま壊れてしまう。彼の頭が元に戻ることはなかった。手も以前のようには動かなかった。完全に不自由なわけではなかったが、いい状態とは言いきれなかった。もう仕事はできない。工事現場では。だが私は、彼がこの場所の物語を語ってくれる理想の人間だと思った。それは、彼に2つの顔があるから。入植者の顔。何も持たずに渡ってきた移民だ。わずかな小銭とナイフと溢れるパワーを手に。入植者の顔と悲劇的な顔。悲劇は、彼が移民の歴史から逃れられないこと。とても暗く、孤独な物語だ。頭の中の苦しみと、錯乱と共に。

彼は犠牲者ですか?
もちろんそうだ。彼はこの世界の不正義の犠牲者だ。彼らはみんなそうだ。それははっきりとその場所に現れている。もちろん犠牲者さ。私はその二面性を見せるため、彼に、映画の中の声やイメージや場所を与えようと思った。彼は魅力的な男だ。だが全ては失われる前に、既に失われていた。彼らにチャンスは与えられなかった。それでも成功できると信じていた。成功の夢を抱いて。だが全てが彼らに辛く当たった。失業、警察との問題、住宅事情、金銭問題…。問題は後でやって来る。頭の中で。とても難しい状況だ。

観客の見るヴェントゥーラ像は、あなたとヴェントゥーラが作り出したものですか?
この映画は、私と彼の間に存在する相違からできている。とてもシンプルなことだ。ヴェントゥーラはこんなことを言っていた。私たちは1年半から2年近く、毎日撮影していた。とても長い仕事だ。そして困難な時もある。喧嘩もするし、私が何かやろうとしても彼にできないこともある。彼が何かやろうとしても私に理解できないこともある。それはどんな仕事関係でもあることだ。そんな時、彼がとてもシンプルなことを言った。彼はかなり怒っていた。「これはあくまで映画で、1秒たりとも俺を理解したと思うな。俺がどんな人間か分かった気になるな。俺の中に入り込めたと思うな。カメラを持ってるからって思いあがるな!」って。それはかなり真実を捉えている。完全に理解できることはないし、相手と一緒になることなんてできない。男と男、男と女の関係であっても。絶対に無理だ。そんな融合はあり得ないんだ。
だから逆に、そこに隙間があると思っていた方がいい。そもそも違うんだと。二人の間に、そもそも距離が存在するのだと。それはいいことだ。おかげで可能性が生まれる。その隙間のおかげで、違う人間が共に生きていける。この隙間が考え、働きかける。映画はそこを前提にして作られる。彼は言った。「おまえのカメラに魔法があると思うな。俺の苦しみを全て捉えられると。俺の過去の全てを」だから単純に映画を撮り続ければいい。いや、続けるしかない。おかげで私も少し落ち着いた。こういう人間と仕事するのが好きなのは、こういうことを言ってくれるからだ。俳優は絶対にそんなこと言わない。俳優が「俺を理解できないくせに、俺をそんなふうに撮るな」なんて言わない。俳優は常に反対のことを言う。「もっとやらせてくれ。もっと表現したい。もっと露わにしたい」私が彼らと仕事するのを好きなのは、彼らが十分に自分を曝け出さないから。彼らは自分を閉じ込めてしまう。秘密を抱え込む。謎は謎のままに。絶対に明かされることのない謎があり、それはとてもいいことだ。そこに魔法がある。捉えられない何かがあると思うことが大事なんだ。

でも映画監督としてはその先へ辿り着こうと努力をするのでしょう?
私はその街の様々な場所へ足を運ぶ。何かを生み出すという意味で、私とヴェントゥーラの間には真のコラボレーションがあった。その創造はとても日常的でシンプルな方法で行われる。まず、あることから始め、私が言う。「そう、それでいい。それで遊べばいい」そうなると、彼の動きもタイミングもおかしくなる。ヴェントゥーラは何かをする時には何かしら考えていて、私が何か口にすべきだと言うと、私が予想もしない方法で言う。私は自分の演出から外れる人が好きだ。そもそもそ自分にそれほど想像力があるとは思わない(笑)。だからこそ、相手の想像力とコラボレーションに頼るしかないんだ。

あなたが演出する時、監督として、その人がただ動くのと、何かを考えながら動くのと、どちらを好みますか?
彼らは大勢いる。というか、映画にはたくさんの人が関わっている。それはとても集団的なものだ。ヴェントゥーラがその宇宙の中心にいるのは変わりないんだけど。まず、映画の中で、彼にたくさん子供がいることになっている(笑)。おかげで、彼に1人、2人どころか、6人、7人も子供がいれば、永遠に物語は終わらずに済む。そして子供は生まれ続ける。そうすれば、撮影も永遠に続く(笑)。そこで私が彼らに求めたのは、誰かに手紙を書くようにこの映画を受け入れることだった。「手紙を書くのを想像してほしい。読んでほしい相手を想定しながら読んでほしい。それがこの映画での役柄だ。あなたは誰かに対して手紙を書く。映画をメッセージとして、メディアとして使ってほしい」と。彼らはその通りにしてくれた。一人は、彼を拒絶した母親について語りたいと言った。15年間会わなかった母親に向けて。それで私たちは彼と二つのことをやった。ひとつは、彼の子供の話。もうひとつは父親の話。そこから始めることにした。彼らはかなり深い領域に入っていく。当然だ。彼らが語りたいことはとても苦しいのだから。とても大きな問題を抱えていた。私たちの仕事はそこから始まる。一緒にテーブルに着いて話し始める。彼らがこういうことを言いたいとすると、私は「分かった。じゃ、こっちに集中しよう。今は別の道に踏み込まないでおこう。道を逸れず、このシーンを1週間リハーサルしよう」それから1週間かけてシーンを撮影して、という感じで進む。私たちに締め切りはない。唯一、許される贅沢は時間だ。色んなことを試す時間だけはあるから。

でもたくさんの人が現場にいるのは問題にならないのでしょうか?
増えたと言っても4人だ。たいしたことはない。今もこの場に4人いる。私と、カメラ担当の友人。自然光だから彼が鏡も持つ。かなり原始的な鏡を作った。別の友人が音響係で、もう一人がその他のことを何でもやる。人数としては多くない。4人でやることは可能だ。それに、これはある程度の親密さを必要とする映画だ。私たちの間に秘密があるからこそできる。トークショーとかでは秘密などなくなってしまう。私たちが作っている間は、私たちだけの世界のものなんだ。

(ほぼ1人で撮った)『ヴァンダの部屋』も、本当はもう少し人数がいた方がよかったのでしょうか?
たぶん、それはないな。あの映画はあの映画だ。あれはあのネットワークが必要だった。『ヴァンダの部屋』は、無意識で、無責任な欲求から作れた。何かに逆行するように作りたかった。それまで私は、50〜60人で映画を作ってきた。通りをトラックが埋め尽くす状態で。

『溶岩の家』もそうでした?
他にたくさんの映画も。そこら中をケーブルが這い、警察が通行止めにする。助手たちも静かに!と叫ぶ。私はその状態に本当に疲れてしまい、映画が透明になれる場所が必要だった。カメラを持つ人間だけがいるような。写真のように。写真をとても近くに感じている。それは世界のどこでも、ストリートでも、いつでも、一人でできる。映画は、そういう意味では可能ではなくなってきた。準備とか、あまりにたくさんのことがありすぎる。無意味な準備が。撮影現場でも、街角のロケなのに、アメリカ映画だと3ブロック分も占拠する。まるで軍事作戦だ。だから映画は、ストリートを信じられる、シンプルな方法を失ってしまった。ひどく残念だ。『コロッサル・ユース』のような映画を見てもらえれば、そんな要素はまるでない。今日作られている大半の映画、特にアメリカ映画では、音響や映像を目にしてもこの世界のものではないことが分かる。もちろん、それでもいいんだけど、私はこの世界にいることを選びたい。私の中の歴史は、これまで語られてきた中にある。存在する、とてもシンプルなイメージだ。映画はそうあるべきなんだ。映画が生き残るにはその方法しかない。それは映画がストリートにあること。小さな店、小さな家、小さな人々と共に。

映画の中のエキストラや、背景に存在する人々についてはどう考えますか?
私の映画にエキストラがいないのは、映画の中の全員がエキストラだからだ。実際、彼らは多くの人の代わりを担っている。ヴェントゥーラはたった一人でそこにいるわけじゃない。彼はたくさんの人を体現して存在する。彼の友人たちのためにいる。かつてヴェントゥーラのような存在であった、全てのヴェントゥーラのために。実際、この映画を誇りに思えるのは、ようやく音響を入れ、編集し、全てが完成し、ラボから最終プリントが戻ってきて、試写会を開く時。最初の試写は彼らのために行う。もちろん、たくさんの人がやってくる。それは素晴らしいことだ。もちろん、どんな時でも変わりはないが、初めての上映会は、映画ができたばかりの時代にどうだったかを想像させる。全ての人がやってきて、みんなが口々に声をあげ、あれは俺の友達だ、俺の従兄弟だと声をあげる。その通りだとみんなが言う。それはかつて、みんなが映画館でやっていたことだ(笑)。「待て、止まれ、違う、ダメだ、そうだ」って。みんながしゃべる。とても生き生きとしている。そして上映会の後、みんなと質疑応答みたいなことをやるようにしている。みんな友達だから、質疑応答とも違うけど、彼らからできる限りコメントをもらいたい。自分の考えたことが間違いではなかったことを確認するために。実際、彼らはこの映画を誇りに思ってくれた。それはアーティスティックな意味ではない。それはまた別のことだ。映画のアーティスティックな側面は、むしろ、僕ら側のことだ。でも彼らに大事なのは、ヴェントゥーラがとても威厳を持って映画の中で存在することだ。彼らはそれを誇りに感じると言う。彼らの言うことはおもしろい。「だってヴェントゥーラなんて、毎日バーでも街でも見かけるじゃないか。おまえはよくいる普通の男で、特別な人間でもなければ、いつもその辺にたむろしていて、もう何年もおまえを知っている。そんなやつじゃないか。でも映画の中のおまえは、大きく輝いている。そんな時、俺たちの代表で立派に立っている気がする」と。「ありがとう」と彼はいう。最初は私にではなく、ヴェントゥーラに。それはとても報われる瞬間だ。それまで撮ってきたどの映画よりも。とても満足した気持ちになり、役に立てた気がする。そんな考えはバカげているのは分かっている。映画、写真、絵画がそこまで役に立つものとでないことは分かってるから。頭の隅で、誰かがこの映画を見て、人の心を動かせるんじゃないかという夢はある。だからこそ、これまで作ったどの映画よりもずっと想いがつまってるんだ。

1  |  2  |  3  |  4