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PEDRO COSTA INTERVIEW

ペドロ・コスタ:映画が震える瞬間

3. 神話を私たちの手に取り戻せ

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この映画で人が話す時、様々な神々が話しているように聞こえるという気もしますが。
それは考えてもみなかった(笑)。とてもおもしろいね。私たちは、映画の撮り方として、時代を遡っている気がする。私にとってはいいことだ。常に前へ進もうとする人たちのように考えてはいない。何か違うこと、オリジナリティーのあることを、もっと特殊効果を、とか。アメリカ映画はそんな要素で溢れている。常に越えなければいけないように。恐竜の後は、原始の恐竜が必要で、闘う英雄も必要になる。常に発展しかなければならない。私たちはどんどん源に戻って行っている。物語を語ることに。物語がどう始まるかの起源に。その物語を誰に語るかに。実際、私たちは常に記憶について語っている。それが私たちの脚本だ。彼らの記憶について。だからどんどん遡らなければならない。それでどこかに辿り着けるかもしれない。私たちの言う、昔の場所へ。はっきり分からないが、君が言うような場所へ。でもどんどんシンプルになっていく気がする。私たちは映画を作るのにほとんど必要としない。とても心地よい感覚だ。また、ある種の自由を感じる。私は写真にとても嫉妬を感じる。写真は偉大なアート・フォームのひとつで、私が好きなのは、そこに自由があるから。誰も人から写真を奪うことはできない。それがもし映画なら、盗むのは簡単なことだ。映画は(その瞬間、パンと手を叩く)それくらい簡単だ。間違ったアイデアや、誰かにこういうものを作ったらどうかとそそのかされる可能性は常に数分先にある。だから、いい予感がする。私が映画を作るのに人は欠かせない。風景の映像だけで映画は作れない。それは私の問題だ。私の場合、空間を見せるために人が必要なんだ。私も中に入らなければならない。女の子でも男の子でも男でもいい。他にほとんど何もなくていい。この映画のように。私たちはほとんど小道具を使わない。彼らがトランプをやるためのトランプを買ったくらいかな。たまたま彼らが持っていなかったから(笑)。他は特になかった。小津(安二郎)のようだ。小津映画なら、4人がテーブルで酒を酌み交わしているだけでいい。それだけで素晴らしいんだ。

そこから空間をどう作っていくのですか?そんな最小限の空間を。
この映画は難しかった。でも同時にチャレンジがある。現実の世界で、ある場所から別の場所へ移動した。彼らはひとつの世界を去った。昔の場所、昔の家、昔の街、昔の光。そしてあまりに多くのことも捨てた。空間も時間も。ある空間、ある時間軸から、完全に異質な白い空間へ移り、その場所にずっと住むことを強要された。この映画の冒頭でそういうことが起きる。映画は始まり、彼らは移り住む。そして私も彼らと一緒に移動を始める。それは映画にとっても良いことだった。新しい空間に対する私の観察が、彼らの時間と同じだったから。彼らがその空間を見て、私も同じ時に、同じ空間を見た。彼らが役者で、私が監督で、両方とも、同じように現場を見た(笑)。そこに見た問題が同じだった。彼らにしてみれば、これからどうやってその場所で生きていけばいいのか。私には、どうやってそこで撮影していけばいいのか。なにしろ真っ白だから。ビデオでは撮影しにくい環境だ。やるべきではない条件が揃っていた。白い表面に、彼らは黒人だ。だから光の使い方も余計に難しい。私たちは同じ場所に立ち、同じ問題に直面した。映画にとっては都合がよかった。空間への批評にもなるから。居心地はよくないし、前と全く違う。私がこの空間を作ったわけではないのに、私のために作られたようなものだった。彼らにとってはとても重要な問題だ。彼らは90パーセントが流れる移民だ。世界中に彼らのような者がいて、建築現場で働き、テーブルを作り、家を建てる。金がないため、何でも建てなければならない。ほとんどゼロから始める。だが初めて彼らのために全てが用意された。知らない人の作った家を提供された。これは誰が作ったのか。作った人は自分のことも知らない。だからこんな家はいらない、となる。いい家には違いない。水道もあり、鍵もあり、トイレもある。機能的で、完璧だが、何かが違う…。そして間違っているのは、彼ら自身で作った空間が、永遠に消えて無くなってしまったこと。そして二度と、自分の手で何かを作ることがないということ。複雑な考えだが、彼らはすぐにそれを理解した。自分たちが社会の一部になろうとしていること。辺境的な立場とはいえ。まだ貧しいし、周囲から蔑まれており、下層階級に違いないが、もう社会に入り込んでしまった。錠前があり、男がドアの鍵を開けるシーンがある。彼らは一度も鍵なんて開けたことがない。私がその場所で鍵を見たのも初めてだ。鍵という概念がなかった。フォンタイーニャスでは、公共の場所と個人の場所の境界はなかった。この部屋(青山にある会議室)から見える景色のように、部屋は四角く、街が謎めいて見えることもある。家も廊下もそうだ。前の空間はとても興味深かった。村のように。アフリカの村の古いシステムのようだった。空間の作られ方を見ると、昔の日本の村のようだ。彼らはいま他の問題を抱えている。自分の場所に共感できないという都会特有の問題だ。彼らは迷子になった。私も迷子になった。この映画の撮影中に。私はたくさんの問題に対処しなければならなくなった。だが同時に、この映画の役には立った。

短編『タラファル』は、彼らが今作の後に体験したことが描かれているのですか?
『タラファル』が興味深いのは、私たちが行わなければならない小さなことだ。彼らは既に新しい場所に引っ越していた。そこに私も到着した。そしてある基金から電話があり、映画の資金を提供したいという。15分の映画に。それなら何か考えましょうと、始まった。ヴェントゥーラともう一人の役者と一緒に。その1、2日後に彼らは言った。「頼むから、もうここで映画を撮るのはやめよう。いっそ他の場所で作ろう」私は、「いいけど、今はもうここに住んでいるじゃないか」と言った。そうだけど、もう『コロッサル・ユース』でこの場所のことは描いたじゃないか。その小さな映画では、どこか別の場所についてやればいい。そこで彼らが、その場所にもう飽きていることを理解した。だが私の扱うべき問題はどうなるのだろう。「私たちが想像することは全て君たちの空間と関係していなければならない」彼らは「分かった」と言った。「簡単なことだ。あのレース場の反対側へ渡ればいいじゃないか」と。周囲はレーストラックに囲まれていた。それでレース場を渡り、2、3週間かけて、林の中に小さな木と小さな岩が二つある場所を見つけた。全てをそこで撮影した。そこは誰の場所でもない林の中だった。彼らも自分たちの空間を失ってしまったことを理解した。だから映画を作るなら、彼らが気に入る空間を作り出さなければならず、とても難しくなることも。映画の世界に。現実ではそこで生きていかなければいけない。だから映画の中で新しい場所を生み出さなければいけない。それは奇妙な場所になるだろう。とてもシンプルか、とても自然な場所。木陰とか。だから君らが言うように、それは神が話しているのかもしれない。どこか天国のように。

そこで神話はどのような役割を果たすのでしょうか?
神話はもうそこにある。常にそこにあった。私たちがそれについて考えることはないんだ。私自身、考えない。だがもちろん、そこにある。私たちは神話を人の手に取り戻さなければならない。神話は私たちの元から奪われてしまい、それを再び取り戻さなければならない。とにかく神話は、金やボスたちに剥奪されてしまった。元々は市井の人々が色々なことを考える素晴らしい方法で、様々な物語を生み出した。それが神話であり、伝説だ。だが物語を語る人々の間には繋がりがあった。それは若者たちと、その子供たち、祖父から息子へ語り継がれてきた。それが神話であり、コミュニティの起源だ。そして別の階級が生まれた瞬間、それは盗まれてしまった。社会的な階級が生まれた時に。この惑星では、そもそも人が土地を耕し、ものを作っていた。それがある日、そこから金が稼げるんじゃないかと考えるやつが出てきた。神話は、私たちが神々の声と呼べるものだったものが、その瞬間、神々は命令し、指令を出すようになった。神々の心は広くなくなった。彼らはボスになった。だからこの世界に十分な神話がなくなってしまったのだと思う。ふつうの人々が神話を失った。それか、神話はそこらのソニーの建物で作られているのかもしれない。彼らのロサンゼルスの工場とか。“今日の神話”を作り出すような場所で。

ビデオ・ゲームのように?
その通りだ。そこら中にある(笑)。どこか高いところに。それを私たちは下へ持って来なければならない。それはパナソニックを使うようなものだ。私だってパナソニックを使っている。悪くはないし、いいマシーンだし、いいツールだ。でも私がその言いなりになることはない。それが私に命令するのは、もっと早く動くこと。でも私はそれをずっとゆっくり使おうとしている。だからこうしろと言われることの逆を行かなければならない。だから私たちは再インストールして、神話を復活させなければならない。それか、最低でも、普通の人の手に取り戻さなければ。私は今でも普通の人々を知っている。彼らはそれほど隠れた存在ではないし、それほど弱くもない。私は彼らを信じている。彼らの手助けをしたいと思っているんだ。

後の世代にも彼らの歴史/神話が引き継がれ、それが存続していくのを手伝っているということですね?
それは容易なことではない。大変な仕事だ。それには時間も忍耐力も必要だ。たくさんの頭痛の種になる。『タラファル』を見てもらえば分かる。15分の映画で最初は何をやればいいか分からなかった。でも突然、とてもシンプルな問題を扱うアイデアが浮かんだ。ポルトガルから強制退去させられる男の問題が。それはヨーロッパ中で起きている。それが日本でも起きているのかはよく分からないが、例えば、韓国人や中国人を退去させたいということがあるのかもしれない。それがヨーロッパではアフリカ人とウクライナ人になる。その多くはギャングだ。すると一人の男が集会所に来て、外務省から受け取った手紙に、身の回りをまとめて退去するまで20日の猶予しかないと話す。男は完全にパニックに陥った。私はそれを題材に何か作ったらどうかと提案した。「どうかな」と彼は言った。「そんな気になれるか分からない。こんなに心配の種があるのに、映画を作るなんて」でも私は「やってみようよ」言った。そしてまずは15分で作ってみようというところから始まった。美しいアイデアだった。自分の最後の日であるかのように、街を回り、友人や家族に別れを告げる。素晴らしいアイデアだ。とても良い、長編映画にもなり得るものだ。でもそれをもっと短くしようとなった。そこで彼と母親を座らせると、二人が話し始めた。私たちは1週間、毎日一緒に座り、3日目に彼らは何かを掴んだ。母親が物語を思いついた。ここでもおとぎ話や神話が登場する。母親が子供時代から記憶している物語だ。悪魔が村に現れ、メッセージを伝える。そして人々は、それを誰かに伝えないと死んでしまう。よくある話だ。たぶん日本にも違う形で存在するだろう。だが素晴らしいのは、母親が外務省の手紙を悪魔のメッセージと繋げたことだ。それは私から出たアイデアじゃない。明確な政治/社会問題とおとぎ話が混ざる瞬間だ。とてもシンプルな作りだ。男が母に別れを告げに行くように。私たちはそれを元に作り、私も素晴らしいと思った。それは現代の物語だ。重要でありながら、彼女を形成した文化に還元されていく。報われるのは、そうしたアイデアが偶然うまく繋がる時。それが集合的な作業によってしっかりしたものになる。15分の映画でも私には手応えがあった。映画にあるべき条件が全て揃っている。とても人間的で、重要な条件が。それにシリアスだ。彼らが言いたいことを語っている。私が彼らに言わせたいことを言わせるための想像ではない。私は彼らの誘導役でしかない。そっちへ逸れない方がいい、そっちへ行くと迷子になるからって。私はただのアウトサイダーで傍観者だ。でも監督以上の役割もある。それは私が彼らにとって初めての観客だから。私はそっちの方がいい、と言うためだけにその場にいる。もちろん、私にだって間違いがあるかもしれないが、それでも監督としての力はある。

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