OUTSIDE IN TOKYO
Rithy Panh INTERVIEW

リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』インタヴュー

2. 人々についての映画を撮っているのではなく、
 人々と共に映画を作るということをやっている

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OIT:うーん、監督は監督同士で話をすることはないですか?
RP:僕は避けます。孤独が好きなので。どちらかと言うと、一人でぶらっと街に出てどんなことが街で起こっているかなど、そういう風な時間の過ごし方が好きなんです。本を一人で読んだり、時々映画を観たりとか。それぞれ人によって個性がありますし。今の時代というのは、皆と同じことをやるという風な、一つのことに決めるとそっちの方に向かってしまうという、そういう傾向があるので、だからこそちょっと騒がしいような映画になっているんですよね。あんまり言葉ばかりが先立ってしまって映画そのものを忘れてしまうとか。だから正直にお話したんですけれど。もちろんあなたの質問に答えるために私は今日ここにいるわけですから。

OIT:はい、ありがとうございます。
RP:でも僕の夢としては、インタビューはもうこれで終りと言ってもらった方が嬉しいです(笑)。

OIT:では、やめますか(笑)?いやいや、そう簡単にはいかないですよ。では、一番聞かれて嫌な質問かもしれないですけど、その上で、なぜ(監督の表現方法は)映画なんですか?
RP:表現をしようと決めた時点で、もちろん表現しないという選択もあったわけですけど、しないでおこうかなという気持ちになったこともあります。最初の仕事は木を使った建具のような大道具を作るような仕事でした、木を使って色んなことが出来ますよね。色々な形も作れるし、木の方向とかを読み解いたり。そう、木樵とか。木樵が斧を降ると木がぱっと割れますよね。木樵はどこを打てば開くかということを知っているんですよね。木はとても気高い材質だと思います。とても香りがいいですし。木樵とか、木と対峙する職業のよさは、話す必要がないこと。寡黙な人間の職業です。それが僕の最初に目指した職業でした。なので、木に向かって仕事をしていればいいわけです、最初はそういうことをしていたんですよ。ラジオをつけてそれを聞きながら黙々と素材と向き合いながら自分で夢想したりしていた、そんな職業でした。もう一つ寡黙でいられる職業があって、二番目の職業は画家です。これも黙っていられます。何時間も何時間も、何日も何日も黙っていられます。私にとってはとても魅力的で、画家というのは、マチエールに触れ、それをどういう風に置くかなども考えられます。僕は具象絵画を描いていました。筆とかではなくカミソリの刃で、具象絵画ではなくポロックみたいなものです。でもある時、才能がないことに気付いたわけです。歌もやりたかったんですけど音痴ということで、選択肢が段々となくなってきて。映画が一番向いているかなと、僕にとっては着手しやすい職業だったわけです。それぐらいシンプルなことなんです。表現方法として何が一番適しているかということを探す中で行き着いたのです。どんな職業でも大事なのは、映画監督にしても、料理人にしても、やっぱりいい仕事をするということですよね。その情熱というものをちゃんと作品を通してコミュニケート出来ること。また新しいフォルムを編み出すこと。よりシンプルに、より明白で、明晰な方向に向かうことですね。料理人だったら、あまり色んな材料を混ぜこぜにすると、もう何が何やら分からないということになりますね。いい素材を選べばそれで十分ということがあります。上手く合わせれば、自然をそのまま活かすことができる。それが皆さんに届けられる最高の作品になるのではないでしょうか。映画もそうだと思います。テーマによって様々なパレットがあると思うんです。どの色がいいか、どの形がいいかというのを探りながら、一番相応しいものを選んでいくという感じです。映画監督というのはアートというよりも、仕事という風に考えています。木の仕事をしていた時と同じような仕事ですが、私の素材は人間、男女、木よりも非常に複雑な存在です。でもそれが更に人間に近づかせてくれるんです。いつもこの仕事をしていると現実に出来るだけ近づきたいという必要性に駆られるんです。映画毎に新しい出会いと新しい旅をしている気がします。毎回変わるんです。だからいつも言っていることですが、本当に僕はラッキーだった、色々なことを毎回違ったことが出来る職業を見つけられて本当に幸せだったなと思うんです。だから映画を選んだのです。

OIT:メディアとして、映画はどのような利点があったのですか?
RP:今ですか?

OIT:自分が(それを)選んだ時に。
RP:物書きの才能もなかったので。今はもう少し上手くなりましたけど。映画の方が書くよりもより自由がある。(映画は)少なくとも三人はいりますよね。映像も録音する人も。それに気候や光も必要になってきますし、うるさいからインタビューが出来ないとかも。いや、間違えてました。物書きの方が自由はあるということです。物書きの方が夢想という意味で無限に広げられますよね。映画は写真でやる時だって構図を考えないといけませんし、80%ぐらいは構図というものを決めるから、そっちの方に意識を取られてしまう。フィクション映画を撮ろうと思うとすぐにスタッフが60人とか70人とかの規模になりますし、非常に重いですよね、マシンとしても。でもメリットがあるとすれば、ストレートなアートということでしょうか。ダイレクトに訴える。監督として直接対話が出来る。うまくいかない時もあるけど結構即時的ですね。観客とのコンタクトが直接とれるメディアじゃないかと思います。映画を撮っていなかったらこんな方向には行かないなというような場所へ、映画を通して行くことが出来る。それがメリットじゃないかと思います。『さすらう者たちの地』(00)でも、本来ならあの人たちの8ヵ月間の工事現場についているなんてこともなかったでしょうけど、あの人たちについて回ったのはやはり映画を撮る目的があったからで、僕は、人々についての映画を撮っているのではなく、人々と共に映画を作るということをやっているのです。本当に“with”なんですね。人と一緒に作るんです。そういう風に人と共に作ることによって、仕事の仕方も自ずと変わってきます。影響を受けるんです。だから水の中に、川の中に入っていく人がいたら、私も一緒に入らなければということになり、そうやって自分の行動も影響される。もし太陽が輝いていたら家の中ではなく、太陽の下で撮る、より豊かにしてくれるんです。世界に対しても理解を深めてくれます。どんな風に人間が生きているのかということに対しても、映画を作るからこそ、そういう方向に行くのです。でもその映画をみんながどういう風に受け止めてくれるかというのはまた別の問題で、私には分からないことなのです。おそらく、その映画を観た人は自分たちの人生を続けていくでしょう。映画を観てその時すぐに好きになってもらえなくても、4~5年経ってからあの映画は良かったなと思ってもらえる。そういうことも経験できます。それはプロデューサーにとっては困った問題なんですけどね。映画にはワインみたいなところがあります。ちょっと寝かせないといけない(笑)。


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