OUTSIDE IN TOKYO
Esmir Filho Interview

エズミール・フィーリョ『名前のない少年、脚のない少女』インタヴュー

3. 何かを決断することが僕らの人生で大事なことなんだ。それがこの映画で伝えたいことさ。

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OIT:これは個人的な質問になるかもしれないけれど、時間を遡ってみて、自分がした体験を思い返した時、当時のあなたはどうでしたか?どのような感情を持っていましたか?
EF:誰も自分を理解してくれないと感じる時、そして誰が理解してくれるのか、一体誰が分かってくれるんだって考えた時、僕はあの少年たちのように感傷的ではなかった。僕はかなりテンションの高い子供だった(笑)。どこへ向かっているんだって気がしていた。誰が僕に曲をかけてくれ、僕の知らない場所へ連れて行ってくれるのかという、あのボブ・ディランの曲を。僕はそこであの少年と共感していたように思う。誰かが現実から僕を連れ去ってくれると思っていた。だから彼は少女に尊敬されているのだと思うし、ネットの少女にあそこまで執着していたんだろう。それに街で会う(恋人の)男とも。彼らは外から来た人間だ。彼らは行動を起こす勇気を持っていた人間だ。でも少年にはその勇気がなかった、僕も思春期の頃はそんな感じだったね。僕にはもっと勇気が必要だったし、誰かが僕にそれを教えてくれることを願った。自分一人で橋を渡る必要があることも知っていた。それがこの映画になった。自分一人の力で橋を渡らなければ、橋を渡り切らなければ、何を渡ってきたのかを振り返って見ることもできない。だから危険なのは橋を渡る途中で止まってしまうことだ。彼ら2人はそれをやってしまった。そして僕が少年に感情移入できるのは、彼が橋を渡り切ったことだ。彼は前を向いて決断し、一人でなければいけないことを理解していた。たとえばだが、自分を理解するためだけでも。

OIT:でも最終的にはオープンなままにしていますね?
EF:そうだね。でも彼の決断は結構はっきりしている。それは彼が何をしたかではなく、彼が何を決断したか、だから。大事なのはそこなんだ。映画全体で、彼は大人のようであったり、混乱していたり、怒りを覚えていたりするけれど、彼はようやく何らかの決断を下した。何かを決断することが僕らの人生で大事なことなんだ。それがこの映画で伝えたいことさ。

OIT:それと、死の考え方だけど、ティーンエイジャーのそういう時期って結構あると思うんです。それはどう表現しようとしたんですか?
EF:若い時は、自分が永遠に生きると思っている。両親に守られていると思い、まあ、最低でも、ある人たちはね。そしてティーンエイジャーのある時期に、自分一人だと気づくようになる。その感情を共有するのはむずかしい。初めて自殺できるんだと考える時期だと思うんだ。そうだ、自殺できるんだって。頭の中にその考えがあるから。少女はそう表現しようと思った。世界にこう見られたいと思う。年老いたくないし、自分の現実の人生を人に知られたいとも思わない。だから僕は彼女の現実を映画の中で見せなかった。彼女が自分をどう見られたいと思っているかが大事だった。彼女のビデオは論文のようだ。これが私というものであり、自分が永遠に凍結されたいイメージであると。だから、死は逆に、少年の人生の空白の中に見てとることができる。それは死んでしまった父親の死のようだ。そして少女の場合、彼女の存在感こそが、彼女が死んでいることを物語る。彼女はあちこちにいる。彼女は実際に目にするし、生きているようでもある。それはとても興味深い、ではなくて、複雑だ。彼女が自分の人生をコントロールすることはとても奇妙だ。それに死は同時に喪失も意味する。何かを失う時のように。前へ進むには死なせなければならないこともある。彼女の子供時代のように。僕が話しているのは象徴的な意味だよ。自分の子供時代を殺さなければ成長することはできない。それか、頭の中で親を殺さなければ先へ進めない。どこかへ行くために町を殺さなければいけない。要するに、前へ進むために、自分を切り離さなければいけない。生きるために死ななければならないんだ。生きるためにやり過ごさなければならない。だからある意味、僕はこれが生へのメッセージだと信じている。死は僕らの周りにあるもので、共に生きなければいけない。僕らの存在は地球上にあるわけだから、死に対処しなければならない。でもそのために生きるのをやめる必要はないんだ。

OIT:僕は、あなたの映画が、人とネット、SNSとの関係をちゃんと描いている初めての映画だと思いました。つながっているけどつながっていない、みたいな。それがうまく表現できている映画に初めて出会った気がします。そういう意味でも新しいと思うんです。
EF:ありがとう。でもそれはあるかもしれないよね。言われてみれば、僕にはとても自然なことだったんだ。たぶん、僕らは家庭にインターネットがあった最初の世代だと思う。だからこういう表現が僕から出たのは自然だったのかも。ネットは僕が15歳の時に普及した。僕もこの少年のように感じていた。ネット上に友達もいた。それはとても大切な存在だった。でもおかしいよね。ただの“名前”なんだから。それかただの言葉。彼らが話しかけてきても、ウェブカムとかもまだない時代で、顔も見えないならどうして友達だと思えるんだろうとは思うよね。だから僕もそういう考えが浮かんでいた。この映画の撮影中にそういう考えは確かにあった。まあ、撮影中だけでなく、この映画のコンセプトを作っている時からかな。そこは作者の体験よりも僕も体験から来たという感じだね。彼の子供の頃にはネットがなかったから。

OIT:彼はいくつですか?
EF:33歳だよ。僕は28歳だから、まさに年齢的な問題だよね。いや、彼は32歳だったかな。でもその4年間だけで変化があった。僕がティーンエイジャーの頃にはネットがあったわけだから。だから新しいものができたのかもしれないし、そこは完全にネット的な視点だよね。僕はそれを共有している。(音楽の)ネロ・ヨハンはそこが違う。それにネットの世界を訪れる人もいれば、ネットの世界に住んでいる人もいる。最近の子供たちは訪れるのでなく、その中に住んでいる。お父さんと一緒に昼ご飯を食べたり、お母さんと話したり、学校にいったりするけど、僕の本当の人生はネットの中だという人がいる。本名はハンドルネームじゃないからね。だから映画の少年は本当の名前がないんだよ。変だよね(笑)。


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