OUTSIDE IN TOKYO
Gu Siaogang Interview

グー・シャオガン『春江水暖〜しゅんこうすいだん』インタヴュー

4. 監督という僕の存在や、作ったクルーといった全てを超えて、
 映画そのものがまるで命をもったかのような存在になってほしい

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OIT:次は具体的なシーンについて聞きたいのですが、学校に行ってジャン先生(グーシーの恋人)と料理店の長男ヨウフー(グーシーの父親)が会話するシーンがあります。とても素晴らしいシーンなのですが、学校の子ども達がたくさんいて、子ども達がみんなキャメラを見てるんですよね。フィクションでは通常あまりそういう撮り方をしないので、面白いなと思って見たのですが、その撮影をした時に、子ども達がカメラを見ているからNGにしようとは思わなかったですか?
グー・シャオガン:あのシーンを残した理由ですけれども、あのシーンはこの映画というか、僕達クルーの一番大事な信念を表している場面だと思います。というのも、その場所で起きている真実を一番残さなければいけないというのがこの映画全体を通しての信念だったので、そこが残っていれば技術的な問題は妥協してもいいと思っていました。ですから、あそこは二人の対話がよく撮れていたので子ども達がカメラを見ていても残すという選択をしています。

この映画では待つ時間がとても多かったんですね、僕達の中では“神が降りてくる時間”っていう言い方をしていたんですけれども、映画の神様が降りてくる時間までひたすら待つ、もしくは撮り直すっていうことは結構やっていました。例えばジャン先生が泳ぐ長回しのシーンはふた夏をかけて何度も何度も撮影をしました、その中でも犬が二匹出てくるという思わぬ事態が起きたのでそのシーンを採用しました。何かしらが降りてくるまで何度も待つ、チャレンジするっていうことですね。

子ども達のシーンに関して言うと、撮影の朝、学校に行くと、登校の時刻だったんですね、校長先生が結構張り切っていて一緒に立っていてくれたんですけど、子ども達は撮影隊が来ているから凄く興奮していたんです、そうしたら校長先生がもの凄く怒ってしまって、自分の学校の子ども達だから、もっと静かに、お淑やかに、いい子そうにしなさいっていう考えをお持ちだったようで、僕達としてはとても失望したんです、全然子どもっぽくない、大人しいシーンを撮ってしまったからどうしようと思って。

中国の学校は午前が終わったらみんなお昼は家にご飯を食べに帰ります。ご飯を食べ終わって午後の授業に戻ってくる子どもが多いピークの10分間は校長先生がいないって聞いたので(笑)、急いでそこで撮ろうっていうことで撮り直したシーンなんです。ですから、そうして待って撮り直すっていうことがなければ、あのシーンは出来なかったと思います。この映画の中では、みなさんには見えていないところで何テイクも撮ったり、待ったりしているんですけれども、やっぱり“神が降りてくる瞬間”というのは待つしかないんですね。

中国の伝統的な絵画の中でよく使われる概念として「気韻生動」という言葉があるんです、それは物事を生き生きとしたまま芸術の中で表す、要は命を宿らせるような、生き生きとしたものっていう意味なんですけど、この映画の中でも「気韻生動」をたくさん体現していきたいと思っていました。さらに言えば、映画そのものに命を宿して、画面が生き生きとすること、それはもう監督という僕の存在や、作ったクルーといった全てを超えて、映画そのものがまるで命をもったかのような存在になってほしい、そうやって時代も超えて残っていってほしいと思っています。

OIT:素晴らしいお考えですね。次の映画も準備されているということで凄く楽しみにしています。次回はもう少しゆっくりお話しを伺えればと思っています。
グー・シャオガン:そうですね、次回は是非リアルな対面でお話したいですね。



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