OUTSIDE IN TOKYO
JIM MARMUSCH INTERVIEW

『リミッツ・オブ・コントロール』
ジム・ジャームッシュ オフィシャル・インタヴュー

2. 従来の作り方とは違う、流動性のある製作方法でつくられた映画

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主人公である“孤独な男”を演じるイザック・ド・バンコレは、彼以外には考えられないほど役柄にハマっている。『ナイト・オン・ザ・プラネット』(91)、『ゴースト・ドッグ』(99)、『コーヒー&シガレッツ』(03)で過去に3度ジャームッシュ映画に出演し、個人的な付き合いも深いイザックを脚本の段階から想定していたのだろうか。
ジャームッシュ:ああ、脚本を書き出したときからイザックを考えていた。イザックは俳優としても人間としてもすばらしく、気がつけばすでに25年来のつきあいだ。俳優としての彼の一番好きな点は、大げさな演技をする必要がないところだ。彼はすごく人間らしい小さな動きで演じることができる。僕はそれを捉えたかった。イザックの体の使い方は、すごく動物的でありながら、同時にすごく意図的でもある。彼のボディーランゲージには強さとプライドが感じられるし、『リミッツ・オブ・コントロール』では、イザックが外見上は何もしていないように見せることで、彼が演じる役柄に表情が出たと思っている。
タイトルの件やイザックをそうした役柄で使うという構想に加えて、『リミッツ・オブ・コントロール』は物が集まり始めたことで実現したという面もある。この映画のためにいつも色々と集めていたのさ。
例えば、ジョー・ストラマーはサン・ホセの郊外に家を持っていた。ジョーが亡くなったあと、奥さんのルシンダが言ったんだ。「この通りに、人に貸していた変な家があるの。ジョーは車で通りかかるたびに『この家をジムにみせてやらなきゃ。きっと映画で使えるよ』って言ってたわ。でもふたりともあなたに教えるのを忘れてて。ここにジョーがあなたに見せたがっていた家の写真があるわ」ってね。結局そこを、ビル・マーレイの演じる人物に遭遇する家として使ったんだ。

その白い家は何もない裸の丘が交差する場所にあり、かつての親友でもあり、『ミステリー・トレイン』にも出ていたストラマーが愛したスペインで映画を撮るのも、ある種の必然だったのかもしれない。
ジャームッシュ:僕はずっとスペインで映画を撮りたいと思っていた。僕の古い友人で『リミッツ・オブ・コントロール』のカルチャー・アドバイザーであり、スパニッシュ・シネマテックの責任者でもあるチェマ・プラードが、マドリードのすばらしい建築物トレース・ブランカスに家を持っているんだ。最初に彼を訪ねていったのは、少なくとも20年は前だ。その建築物は1960年代後半に建てられたもので、僕は常々なぜ他の連中がもっとあそこで撮影しないのか不思議に思っていた。今回やっとその中の部屋のひとつで撮影できた。空き部屋を使って、内部を自分たちで造り込んだんだ。そんな風に全てのピースをつなぎ合わせ、セビリアを念頭に置いた時、スペインで全てが形をなし始めた。

それは空港から街に入った”孤独な男/殺し屋”が、指示通りに待機する場所として“チェックイン”する場所だ。ジャームッシュ映画としては異例の、“モダン”な建築は、画の中に多くの曲線をもたらし、殺し屋/カメラの移動に上下運動も与えている。従来は、しっかりとした脚本を書いて撮影に臨むジャームッシュ監督だが、本作では、より機動性が高い流動的な製作体制が意図的に選択された。
ジャームッシュ:この脚本は最初25ページ分の物語だったものを、制作段階で膨らませていった。最初からそうしようと決めていた。脚本が自然に成長するにまかせて、従来の脚本というものは作らないようにしようと。だから現場では常にアンテナを立てて作業していたし、いつも何かを再検討したり、作品が自然とある方向に向かっていくのに身を任せたりする態勢が整っていた。プロダクション・デザイナーのエウヘニオも、変更ありきということを実に寛大に受け入れてくれた。「脚本にこのシーンはこうと書いてあるから、それを実現させよう」というのではなく「これがシーンのスケッチだけど、何を連想する? 物でも何でもいい。新しいアイデアはないか?」という具合だ。そしてクリストファー・ドイルは当然ながらこういうことに関しては専門家だからね。彼は本能に従うんだ。


それは行き当たりばったりの直感に従いながら、任務に向けて進んでいく殺し屋の手順とも同調している気がする。常にアンテナを張り巡らし、小さなヒントを捉え、逃さないように専念する。
ジャームッシュ:(確かに)これはいつもの僕の手順じゃない。普段は最初からかなり細かい脚本を書いている。でも今回は指示も最小限で、事実、最初はセリフもなかった。撮影を進めるなかで、一連のセリフを作っていった。ヴィム・ヴェンダースや他の脚本家も、2ページのトリートメント(概略)だけで撮影を始めたことがある。だが僕の場合、シーンは書いてあって、枠組みという意味ではそこから外れないようにした。膨らませたのはシーンの“中身”だ。

その中身は、殺し屋に近づく者たちの個性や会話、殺し屋自身の拘り、手に触れるマッチ、彼に向かって繰り返される暗号など、目に見える、耳に聞こえる、あらゆるものがひっかかる。
ジャームッシュ:その25ページの物語を書いている時に、ジャック・リヴェットの初期の作品のことも考えていた。彼の作品にははっきりこれと伝えるのが難しい、なにかしらの企みが組み込まれていて、それがエントロピー的に育っていくように見える。その企みが手に負えないほどに成長して、最後には作品を見る前よりもさらに謎に満ちた状態になっている。
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