OUTSIDE IN TOKYO
LOU YE INTERVIEW

ロウ・イエ『スプリング・フィーバー』インタヴュー

5. 1930年代の中国は、日本やフランスの影響を受けて、
  個人を尊重した作品が沢山書かれた、非常に重要な時代でした

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OIT:ところで、新作はパリ郊外で撮影されたそうですね。
LY:そうですね、部分的にパリの郊外で撮影をしました。撮り終わりました。

OIT:それはデジタルじゃなかったんですね?
LY:これは新しいREDという機材ですね。それはデジタルビデオというよりは、かなり高度な品質のいいカメラです。

OIT:良かったですか?
LY:とてもいいです。35mmの高感度フィルムにすごく近い。

OIT:新作は、『スプリング・フィーバー』の流れをくむものですか?
LY:全然違います。初めて撮る外国語の映画です。だからそれを思うと5年間の撮影禁止に感謝しなくてはと思います。この撮影禁止5年間の間に初めてのデジタルビデオで撮った『スプリング・フィーバー』を撮れて、そしてまた初めての外国語映画を撮れたということで感謝します。

OIT:満足度はいかがですか?
LY:まだ分りません。まだ編集に入ったばかりなので。今とっても辛い時期にアップリンクの浅井さんから呼ばれて(笑)。

OIT:本当は編集作業をやっていたかった?
LY:もう頭の中はこの新作でいっぱいなんです。でも浅井さんには感謝しなきゃ、ちょっとここで距離を持たせてくれたっていうことで。

OIT:ストーリーはどのようなものですか?
LY:やはりラブストーリーで、中国の留学生がパリでフランス人の青年と知り合って恋に落ちるという話です。リュウ・ジエという作家、中国人の女性の作家が書いた自伝的な作品を元に撮った作品です。

OIT:留学生は女性?
LY:そうです。大学院生です。

OIT:じゃあ、中国では撮らなくてもいいと思うようになります?
LY:5年の禁止が来年で終りになるので、また国内で撮ります。

OIT:そこは大事なのですね?
LY:もちろんそうです。

OIT:それはなぜですか?
LY:中国にはまだたくさん撮りたい題材が多いじゃないですか。5年それができなかったわけだけど。もしそれでまた処分されたら日本に来て撮ろうかな。

OIT:中国人として撮っているという意識はあるのですか?
LY:たまにはあるかもしれませんが、いつもではないです。特に仕事をしてる時は中国人という意識はあまりない。例えばこの新作の撮影現場は私とカメラマンが中国人で、あとは事務系の人以外は全てスタッフ、役者もフランスの人達ですから、もうまるで自分がフランス人になったみたいな感じでやっています。もちろん中国人の監督ですから、それはもう説明しなくても分るでしょう。

OIT:今回、『スプリング・フィーバー』に引用された郁達夫(ユイ・ダーフ)の作品も、大衆の中の個人ということを語られてますよね?中国における、個人というものにフォーカスをあてています。
LY:1930年代というのは、ユイ・ダーフに代表されるように、個人をとても尊重して重要視して作品を書いた、そういう素晴らしい作家達がたくさんいたわけです。中国は歴史的にみて個人に対して抑圧を加えるという方向でこれまできたわけですが、それに対して30年代の人達は、人間性をちゃんと個人の目から見据えて、捉えようとした。それが1930年代の素晴らしい個人を捉えた作品の始まりだったわけです。しかしながら、その後の中国の現代史の中では、そのせっかく芽生えた個人の発芽というものを、また薄れさせてしまった歴史的な背景があります。30年代の作家達は色々日本の影響も受けている。またフランスの影響も受けている。日本とフランスと中国と、そういうものが混じっているのが30年代だと思うんですね。非常に重要な時期です。だから文化というのは非常にどういう経緯で発生するかというのは、とても複雑です。

OIT:映画として影響を受けた中国でも外の監督でもいいですが、教えて頂けますか?
LY:例えば1940年代の上海映画が華やかだった頃のフェイ・ムーとか。『芙蓉鎮』(87)を撮ったシェ・チンも好きです。そして後はホウ・シャオシェン監督、香港の監督も好きな人が沢山います。ヌーベルヴァーグの監督達、アメリカのフィルム・ノワールの監督達、そしてジョン・カサベテスも好きです。

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