OUTSIDE IN TOKYO
Mohamed Al-Daradji INTERVIEW

モハメド・アルダラジー『バビロンの陽光』インタヴュー

2. パレスチナの映画作家ラシード・マシャラーウィは、
 これはイラク映画を越え、アラブ映画でもなく、もはや人間の物語だと、言ってくれた。

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OIT:最初の映画から2作目までの間、あなたはどこにいたのですか?現在はイギリスを拠点としているようですが。
MD:はい、拠点はイギリスですが、2つの国を行ったり来たりしています。この映画の準備のためにイラクにいました。リサーチやロケハン、キャスティングのために。それと脚本を書くため。そして資金調達のためにイギリス、ヨーロッパ、アメリカにも行きました。共同製作の方法を探っていたのです。その期間はイラクの首相よりも多く旅していたくらいです(笑)。映画製作のその期間だけは。もちろんイラクはしょっちゅう通いました。北から南へと、ロケハンをしながら。

OIT:では、資金調達、また技術的な面においても、外に拠点を置いている方が効果的なわけですね。
MD:そうですね。それは大きな助けになっています。映画作りというのは一人だけのものではない気がします。作品も意識もクリエイティブなアイデアにおいても。まずアイデアを思いついたとします。そのアイデアから始まり、脚本家と一緒に作業したとしても、そこにチームワークが必要です。それが映画作りの美しさですが。部屋で1人で絵を描くペインティングでも音楽を作るのとも違います。それ以上の何かが必要で、それがチームの力です。おかげで私はとても助けられたし、映画作家としての成長を大きく後押ししてくれ、意識も開いてくれました。この映画はイラク人やアラブ人のためだけに作ったわけではありません。世界中の観客を想定しています。それは人と対話をすることの助けにもなるのです。

OIT:親戚が似たような状況を体験していると聞きました。それが直接、この映画の原動力になったのですか?それとも、こうした物語、こうした状況自体がずっと頭にあったのですか?
MD:人物や状況は……、いや、一旦戻りましょう。この映画が頭に浮かんだのは2003年の時です。バグダッドの通りにいて、バビロンでの大虐殺を耳にしたのです。私はそれにとてもショックを受けました。大虐殺?バビロンで?あの古都で?意味が分かりませんでした。でもその瞬間、同時に自分の叔母のことも考えていました。叔母は息子を失いました。イラン=イラク戦争に出兵したまま行方不明となったのです。叔母さんはいつも泣いていました。私はその頃、主人公アーメッドの年齢でした。そしてなぜ彼女が泣いているのか聞いていました。どうして泣くのと。アーメッドの年齢の私にはまだ理解ができませんでした。そして、後になってアイデアを合わせてみると、叔母さんではなく、祖母にしようと思いました。では少年はどうだろう。それならば孫に違いない。そんな彼は私自身を体現しているのです。おかげで、パーソナルなストーリーでありながら、パーソナルなストーリーではないのです。家族の喪失というパーソナルな物語があります。でもパーソナルでないところは、私が映画監督として距離をおかなければいけないと思ったのです。感情的になりすぎ、物語に近すぎると、時によって影響を受けすぎてしまうことがあります。でもリサーチし、人々に会う過程で、どんどん自分の物語になっていきました(笑)。実際、それだけの人に会い、それだけの人を見ていくと、例えば、(祖母役の)シャーザード(・フセイン)に会い、彼女の話を聞くだけで、吹き飛ばされてしまいます。重いんです。とてつもなく重い……。22年もの間、夫を見つけることができない。5年間も刑務所で過ごしている。まさにエモーショナルです。イラクでこうした映画を作ると、現実とフィクションの間の境界は狭くなります。そして時々、踏み越えてしまう。私の母もこう言っていました。「なぜおまえは映画なんて作っているの。私たちが既に映画の中にいるようなものじゃないか。ある意味、私たちの人生の方がフィクションみたいよ(笑)」と。私たちはリアルな存在です。そういう意味でも、この映画は私の一部であり、私の一部ではないのです。

OIT:最初に触れたように、映画がある役割を担うようになり、自分のビジョンもスタッフに共有され、彼らのものともなり、あなたの言うパーソナルから他者の世界へ越境していく運命にあるわけですよね。そうして越えていくことへの思いは?より広くなることの責任は?
MD:それはとてもいいことです。私は2006年に東京にいました。私の他に4人のアラブ人映画作家が一緒でした。1人はパレスチナ人の映画作家で、ラシード・マシャラーウィでした。彼は映画を上映するために来日しました。パレスチナは多くの悲しみを抱えています。戦争も何もかも。だから私の話を彼らにしても、彼らはそこまで心を動かされないのです。彼らはもう知っていることですから。ところがラシードは東京にいる間に私の脚本を読み、感動してくれ、共同製作者になってくれたのです。ラシード曰く、これはイラク映画ではないのだそうです。イラク映画を越え、アラブ映画でもなく、もはや人間の物語だと。息子を探し求める母親。父の姿を永遠に見ることのない息子。許しを乞う元兵士。そんな要素が、ただのイラク映画という枠を越えさせるというのです。もし私がイラク人の観客だけを想定して映画を作るとすれば、もっと違うものにしなければならないでしょう。違った説明方法をする必要があるかもしれません。情報も違う形をとるようになります。ところが私は世界中の観客に向けて作っています。それがこの映画にまた別のパワーを与えてくれているのかもしれません。映画作家として、私は脚本家として出てきたわけではなく、映像側の人間です。だから私が書く時、私は映像を描きます。説明的なのです。台詞を詳細に書きこむこともなく、詳細は逆にエモーショナルです。そこに耳を傾けるだけでいい。だから場面は状況説明になってしまう。それについて話すよりも、人は映像で見ると、どこの国の人でもその世界に近づけます。それは映画に台詞が少ないことで分かるでしょう。台詞はほとんどありません。最初の5分でしゃべるシーンもありません。祖母の「彼を怖がらせている」というそれだけがやっと登場します(笑)。でもだからこそ、観客が共感できるようになるのだと思います。人物たちと一緒に。また、脚本を読めば、映画に参加したくなるようです。脚本を誰に渡しても何か加わりたいという。人間的な普遍性が、人を参加させたい気持ちにさせるのかもしれません。


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