OUTSIDE IN TOKYO
PEDRO COSTA INTERVIEW

ペドロ・コスタ『何も変えてはならない』インタヴュー

3. 最近の若者の多くは、映画を作りたいと言いながら、
 グリフィスや溝口や小津やゴダールさえ知らない

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OIT:では、あなたにとって、そんな35ミリ・フィルムが無くなり、使えなくなったらどうするの?
PC:もちろん、こういう仕事がしたくて、こういう仕事に興味を持っている人なら、まあ、イメージとサウンドに関わる仕事だけど、そうしたら、僕のように、ビデオで続けていくしかないよね。HDとか。でも例えば、僕自身のことで言えば、HDは好きとは言えないんだよね。

OIT:どうして?
PC:使い心地が悪いんだ。そもそも質感が好きじゃない。映像も好きじゃないし、機械としても好きじゃなくて、ポストプロダクションの作業自体も好きになれない。(できるなら)触りたくない。どこか知らない場所の、バーチャルな、どこか遠くに存在するメガバイト的なピクセルの領域にあるものだ。もし何かを紛失すれば永遠に無くしてしまう気がする。缶に入ったフィルムを無くしても、財布や時計を無くすようなものだけど、例えば、道で無くしても、それでもこの世界に存在はしている。でもファイルを無くすと、どこにあるんだって分からなくなる。

OIT:笑
PC:どこにあるんだ?! まるで、そもそも何も起こらなかったかのように。
でもこの映画はフランスで作った。ポストプロダクションは、ヨーロッパで一番大きなラボのエクレアでやった。歴史的にとても重要なラボで、多くの映画がそこで作られてきた。ルノワール、ゴダール、トリュフォーと、全てがあの場所で作られた。そしてこの映画の作業をしていて、本当に悲しかったのは、ヌーヴェル・ヴァーグの映画とかを作ってきた昔からの職人たちと作業していた時だ。(棚にあるDVDを見て)今、見ていたんだけど、『ママと娼婦(La Maman et la putain)1973年』という映画もそのラボで作られた。僕の映画の作業をしていた男が、まさにあの映画を作ったんだ。

OIT:その人はいくつですか?
PC:とても歳をとっているよ。みんな60、いや、70代だな。
今もあの白いコートを着ているよ。科学者のような。

OIT:それは素晴らしいね。
PC:でも毎朝ラボに着くと、彼らは外でタバコを吸っていた。「やあ。おはよう。元気かい?」と言った後、「今日はミーティングがあって、我々の部署が閉鎖されて、デジタルに移行するんだ」って。65歳の昔から映画を作ってきた男が、デジタルのPDフォーメーションをやらなければいけない。でも本当はやりたがってなどいない。だって65歳とか70歳だよ。どうして今さら(そんなことを)。だいたい、どうやっていいかも分からない。コンピューター上に何かを書けばいいだけだ。彼らの話によれば、僕らの映画が終わってから、2年後にまたこういう映画を作りたいと思っても、もうできないぞって言うんだ。それは単に、もうネガ自体が無くなるから。

OIT:それは悲しいね。
PC:多くのことが失われていく。僕は反発してるとか、メランコリーに浸っているとかじゃない。ただ単に、僕らが失っていっているものと、得ているものとのバランスが見合っているのか分からない。提供するものがそれほど興味深いものでないのかもしれない。

OIT:僕らが失っているものとは何でしょう?時間か、それとも瞬間の重さ?
PC:そうだね。考える時間、呼吸する時間。聞くこと、見ること、そして沈黙。あまりにたくさんのことがある。だから政治的な映画を作る意図がなくても、そんな警告を発する映画作家が好きだ。例えば、ブニュエルも政治的な映画作家ではないけれど、「私の映画で伝えているのは、我々の世界が最高の世界でないことくらいかな」というようなことを言っていた。よくなる可能性があるからこそ、ひどいことも見せているのだと。少し抽象的だけど、とても美しいと思ったのは、映画が伝えるべきものは、例えば、映画で川を見せると、湖もそうだけど、観客にとってはっきりしてなければならないのは、あの川、あの湖で、50年前、100年前には、そこで泳ぐことができたこと。魚釣りもできたし、日曜に出かけられる場所だったのが、もう100年もしないうちに、そういうこともできなくなるかもしれない。日本にもあるように、人工的な川や湖や空ができて、そのうち、毎朝、人工的な空を拝む時がくるかもしれない。まあ、それがいいことなのかもしれないけど、僕には分からないな。まあ、僕はたぶん怖くて、不安なだけだよ。ただパニックに陥っているだけだ。

OIT:あなたの話を聞いて、あなたの撮ったストローブ=ユイレのドキュメンタリー(『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』)を、あの瞬間、思い出したんだよね。あのシーン、ああいう瞬間は消えゆくものなんですよね?
PC:あれは映画学校でよく見せる映画なんだけど、この前、スペインの映画学校で見せて、若い子たちと編集について話し合った。20歳くらいの子たちに。その一人の、映画を見た後の最初の質問が、「あのハンドルの付いたテレビみたいなものは何ですか?」と言ったんだ(笑)。「あれは行ったり来たりするハンドル付きのテレビなのか?」って。ええと…(笑)。

OIT:そうだよって言ったの?
PC:とにかく驚きと同時に、おかしくて。でもよくないことは、彼らの前にどんなことがあったかということを何も知らないことだ。最近の若者の多くは、映画を作りたいと言いながら、グリフィスや溝口や小津やゴダールさえ知らない。彼らの映画を見たこともない。それは(大きな)問題だ。僕も若い人たちの映画を見るけど、短編を撮って有頂天で、調子に乗っている時があって、そんな彼らに言うんだ。これは別に新しいことじゃないって。そういうことは、100年前に、もっとうまくそういう人たちがやっているんだよって。「へー、そうなんだ。本当に?これは僕が生み出したわけじゃないの?オリジナルじゃないってこと?そうなんだ…」って。1920年にそれをやった人がいることを知らないんだ。彼らは(デヴィッド・)リンチ、ガス・ヴァン・サントで始まっている。その事実は彼らも落胆させる。世界を変えたつもりなのに。まあ、どうしようもないことだけど、それが盲目的なところだ。無知な盲目。でもそれは講師や批評家のせいでもある。僕にとって、今でも自分がどこに立っているか知るのは大切なことだ。どこから始まって話しているのか、時間や空間のどこに位置づけられるのか、自分が今、どこに立っているのか。僕が何かをやっても、既にやられていることは分かっている。だからささやかな変化を試みて、オリジナルから旅立とうとする。例えば、この映画の場合も同じで、同じことをやれば、またDVDのボーナス・トラックの焼き直しになってしまう。それは僕にもジャンヌにもミュージシャンたちにとっても満足のいくものではなくなってしまうはずだ。

OIT:あなたがその子たちに教えられることは、沈黙で伝えられることがたくさんあるということだと思います。あなたの映画にはそれがたくさんありますよね?
PC:そうだね。そんな要素も、この手のプロジェクトやドキュメンタリーでは滅多に起きないことだね。音楽についての映画、または音楽を作っている人たちの映画にありがちな、指やギターばかりのショットはバカげている(笑)。そんな男が音響的なオルガズムを迎えるような映像なんて。飛行機やバスの中の男たちがビールを飲んでるところも。こうしたプロジェクトの、こうしたタイプの音楽、つまりポップスやロックは特に難しい。映画はとてもロックにひどい扱いをしてきた。ロックについての、ロックを扱ったまともな映画を考える時、両手の指だけで十分かもしれない。ゴダールとストーンズ、ロバート・フランクとストーンズ、それに青山(真治)も実験的な音楽を扱ったいい映画を撮った。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』も、音響についての映画だ。結局、2、3、4本くらい、一貫した映画はあったけど、それくらいだろう。ロックと映画の関係はひどいものだ。いつもドラッグと関連づけて描かれてしまう。映画の中で男がジョイントを吸えば、レッド・ツェッペリンの曲が流れ、カメラがサイケデリックな感じになって、薔薇色やピンクに包まれる。おもしろいことに、最初のジャズのショーを思い出す時、アメリカの50年代のジャズのテレビ番組がある。テレビスタジオで、マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンが演奏し、ビリー・ホリデーが歌う様を、テレビ番組のために収録した、50年代、60年代のモノクロ映像で、素晴らしくて感動した。あの偉大なアーティストのマイルス・デイヴィスの横で、ジョン・コルトレーンが演奏しているのを、シンプルなミディアム・ショットでボディだけを捉えている。とにかくシンプル(な構図)で、身体と顔が見え、指も見えているから、見る人は(どこを見るか)選べる。ワイド・ショットでも自分の見たい部分が選べる。指に限定されることもないし、(通常)トランペットを吹かない時は無意味だからね。そのスピードには驚嘆するばかり。そして見たい部分を選ぶだけ。素晴らしいのは、そんなショットの後、再びマイルス・デイヴィスに戻ると、トランペットを持っている彼がじっと見て、ただ感嘆しながら、コルトレーンと一緒にいる様が見える。2、3分だけど素晴らしいんだ。これは見るべきだよ。彼が見ているだけの様を。僕は数日前に見ていて、こういうものも失いつつあるんだと思った。僕が今、プロデューサーを訪ねて、ビョークやソニック・ユースと仕事がしたいとする。そこでビョーク自身は歌っていないのに、パートナーの(奏でる)音に耳を傾けている姿を撮って、彼女が歌って演奏もしていなければ、プロデューサーは「あり得ない」というだろう。何も起きていないじゃないかって。その時間は死んでいるし、何も起きてないじゃないかと。それは無であり、何もない状態。音楽を作る上で、パートナーの存在は大きいはずだ。そんな沈黙はやさしさであり、相手を守るものだ。マイルス・デイヴィスとコルトレーンの間でも、2人が互いに守り合おうとする様が見える。マイルスがそうしたいのも見えるし、彼が何を考えているのかにこちらの興味もいく。彼らの目にいろんなものが映っている。それをほんの少し、この映画でも表現しようとした。ジャンヌとロドルフの間に何かが起きている時、音楽以外にもう少し何かが生まれる。テクニック以上の何かが。指の動き以上の何かが。感情とか、不安や幸福感とか。

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