OUTSIDE IN TOKYO
PEDRO COSTA INTERVIEW

ペドロ・コスタ『何も変えてはならない』インタヴュー

5. 気をつけろ!自分を大事にして、気をつけろ!

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OIT:自分にとって何が正しいと思うか。どんなバランスをとるのか、どこから始めるのか、どこで終わらせるのか。その間のことをどうやって語るのかも…。
PC:もちろん。全ての映画が違う。編集も、とても特別で、刺激的な行為だ。映画の編集は、(文章を)書く作業とも、絵を描く作業とも、コラージュとも違う。いや、コラージュには近いかもしれない。その関連性、2つの間の関係性が大事だ。“これ”と“あれ”ではなく、その2つの間の“ここ”で起きていることが。でもその真ん中がかなり“見えない”。(見つけるのは)大変だし、その代わり、驚きがあるけど。だから2つのショットの間に関連を見つけられた時、うまくいけば、素晴らしい瞬間になる。感覚的に、それがうまく機能しているかどうか分かる時がある。それはストローブの映画で見られるように、とても実利的だ。だいたい、テーブルには脚が4本必要で、3本しかなければ、どちらか一方に倒れてしまう。だから4本目の脚を見つけなければいけない。全てのパーツがうまくかみ合うように。でもそんな全てを包括して説明できるテーマはないと思う。それに、みんながやらなければいけないことだってある。全ての映画が共有する、とてもシンプルな事柄が。でも同時に、全てが違う(のかもしれない)。この映画の場合、もちろん難しいのは音楽だった。音楽がたくさんありすぎる。退屈になる可能性もあるし、(ただ単に音楽が)多すぎるかもしれないし、リズムのバランスが合わないかもしれない。でもある種のフィクションは追求しようとした。常に、彼らをミュージシャンとは考えずに、ギャングスターやウェスタン映画のように見ていた。どんな西部劇にもいるけど、ファム・ファタールのような美しい女がいる。彼女はバーで歌い、タバコを吸う。そしてリーダー格のギャングがいて、彼は自信に溢れている。ベース・プレイヤーは神経質だ。拳銃を持っていて、いつでも人を撃つ準備がある。そこで考えたのは、3、4人が、何かから逃亡しながら、森の中の山小屋に立ち寄り、火を起こすというイメージ。存在しない映画のサントラと合わせて(笑)。未だ作られぬサントラだ。そして作業中に何らかのフィクションを作り上げて行く。それが予想しなかった場所へ誘ってくれる。そして同時に、音楽で何かやりたかった。世間にあるものとはほんの少し違うものを。まあ、だいぶ違いすぎたかもしれないけど(笑)。風変わりすぎたかも。

OIT:それに選んだ曲(のタイトル)が、“拷問”とか“無為な苦痛”だったり(笑)。
PC:そして影がある。二重のイメージとか、そういういろんな言葉があるけど、それはただ降りてきたものだ。降りてくる暗い面があり、そこからは逃げられない。僕には理性的で、現実的な側面がある。ストローブのような人がとても好きな自分がいる。でも同時に、いろんなことも好きだ。ジャック・ターナー、ホラー映画、アメリカの古典的なノワール映画、超自然的な幽霊とか。フランスの批評家の友達がいて、彼がこの映画が公開された時に興味深いことを書いてくれた。ジャンヌもそれを読んで、あら、と言っていた。彼はジャンヌを吸血鬼だと書いた。行き場を失い、歌っている時は人に噛みつく準備をしているようだと(笑)。彼女を『ノスフェラトゥ』のような存在だと表現したんだ。

OIT:ジャンヌも、オペラの歌唱法を先生から習っている時は、拷問を受けているようだしね。
PC:もちろん。でも拷問というのは、ひどい時もあるけど、僕らの仕事の一部でもある。たまに、素晴らしいと言えないことだってある。映画は素晴らしいだけではない。そう言えば嘘になる。ミューズとか、ジュリア・ロバーツとか、何百万ドルという世界だけではない。とても拷問的な瞬間、厳しく過酷で、退屈な瞬間だってある。そうでしょ?こんなことを一日中やっているのは、小さな意味では拷問に違いない(笑)。

OIT:自分の映画について一日中、語り続けているあなたにもね。
PC:いや、これも仕事だよ。僕には喜びでもある。僕の仕事の一部だ。特に、小さな映画にとっては、いいことだと思う。

OIT:僕には、VOX(アンプ)だけが映し出される映像からたくさんの音が聴こえてきたよ。ギター、アンプ、マイクがあり、ジャンヌは下手のどこかにいる。そしてそこからオペラのシーンへ移行する。その瞬間がとても美しいと思った。
PC:あのVOXのショットは、実際、映画の最後のショットにも入れたんだ。あれもまた、僕らが失いつつあるものだ。いや、ずっと昔になくしてしまった。実は“モノ(MONO)”で映画を作ろうとしてたんだ。モノラルでね。モノとは、つまりマイク1本で録音するということ。4人で一緒に演奏しながら、マイクはセンターに1本だけ置いて、みんなで一緒に収音する。今は、映画でそういうことはできない。ドルビー・サラウンドがあり、全てがトラック分けされる。各々が一人で録音する。ストローブはいつもドルビー“帝国”の不満を漏らしていた。逃れられないものは多くあるが、(今は)ドルビー・システムから逃れられない。でも実際、それはストローブよりも先にジョン・レノンが言っていたんだ。
(笑)ビートルズの『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバム・プロデューサーだったジョージ・マーティンがステレオでミックスした時、レノンは、よく書かれているけど、「おい、ジョージ、そんなものはよくもなんともないし、最低だ」と言ったんだ。別々に演奏するのでなく、みんな一緒に演奏すべきだと。「そんなのはオレたちの曲ではない」と。そして去年、ビートルズの再発盤がリリースされた時、マッカートニーとのインタビューを読んだら、彼も同じことを言っていた。「再発は素晴らしいことだけど、ビートルズについて本当に知りたくて、僕らがどう演奏したかを本当に知りたいなら、モノラル版を買わなきゃだめだ」って。そこではみんなが一緒に演奏したからだ。僕の映画では、最後のショットがその“モノラル”だ。ドルビーがオフになり、違う音が流れる。それがこの映画のサウンドだ。その空間の音だ。それはすぐに分かる。洗練された音も、技術も何もない。24トラックあれば、何でもできるけど。ジャンヌをもう少し落とすか、増やすか、ドラムを減らすか、ベースをあげるか。最後のショットか、VOXか…。だからせめてVOXの時だけ、僕の好きなサウンドにした。ロック、つまり、キンクスやビートルズやスモール・フェイシズのように。マーシャルのVOXの音だ。劇場ではそれが15秒しかできない。でないと、すぐにドルビーがオフになって、ボンってなる。だから、それもまた、できないことなんだ。だからホワイト・ストライプスのようなバンドが、後戻りするのは素晴らしいことだ。テープでやったり。違うサウンドを追求して。

OIT:ところで、あなたも知っている日本の俳優からひとつだけ質問があるんだけど、映画を作ることと、映画を見せることの間にどんな違いがありますか?
PC:僕が自分の場所で作っているような映画、つまり、僕のこれ以外の映画に出ている男女には、映画を作ること自体が、実際にその場所において、彼らの人生の一部になり得るということだ。僕はほぼ成功しそうなところまでいった。彼らにとっては、それを常にやることで、映画=ドキュメントすること、物語を追求すること、映画を作ること自体が、靴作りやテーブルを作ることや、日々の仕事をこなすのと同じくらいふつうのことになり得るところまでいったんだ。だから靴を作るのと同じくらい、それは興味深く、靴を作るのと同じくらい、つまらないことなんだ。すごく刺激的でありながら、すごく退屈であるように。同じ機会、同じ民主的な手法がある。誰かがバーを営み、誰かがコーヒー・ショップをやり、誰かが靴職人であること。あの場所では、その点において成功したと思う。「やあ、おはよう」というのと同じように、彼らが店を開くのと同じように、僕も店を開き、周りを見渡し、何が起きているのかを見て、ジュリアスおばさんが事故を起こしたとか、この男には何か語るべきことがあるかもしれないとかを考える。だから、やっていると同時に、見せてもいるわけだ。そこにはダイレクトで、即時的な行為がある。いい言葉ではないけど、テレビの“やり方”としては、理想的な手法が実践できたかもしれない。もう失われてしまったものだけど、そこに到達できるかもしれない。理想的なテレビの夢に。リアルなものを見せ、想像上のものを見せること。あとは映画を5週間、上映するとか。4年に一度、どこかを回って見せながら、Q&Aをやる。それができる方法がある。でも僕はそれと反対の方法をとろうと思う。大変だけど、より人間的なことを求めてのことだ。でないと、僕が混乱してしまうし、もっと助手が必要になり、リムジンも必要になって、飛行機が必要になる。そしてそこで何かが失われてしまう。それはロバート・フランクの(ローリング・)ストーンズの映画でも見ることができる。とても悲しい映画(『コックサッカー・ブルース』)だ。彼らはゴーストのようだ。完全に自分を見失い、ぼろぼろの抜け殻のようだ。「こいつは映画を撮っているけど、俺は一人になりたいし、放っておいてほしい」と思っているのが分かる。だから彼にはこう言っておくよ。「気をつけろ!」と。「自分を大事にして、気をつけろ!」


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