OUTSIDE IN TOKYO
PEDRO COSTA INTERVIEW

ペドロ・コスタ『何も変えてはならない』インタヴュー

4. 映画はもっと大きくて素晴らしいものでないといけない。もっと豊かでなければ

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OIT:撮影中に、彼らのイメージが、『ベルリン』、ルー・リード、そして彼女がニコで、と重なったことは?
PC:(笑)それはないな。ジャンヌが歌っているのを聴いていると、もちろんニコが思い浮かぶし、少しだけベルベット・アンダーグラウンドも浮かぶ。彼女も好きな人たちだし。他のシンガーや他のことを考慮しても、もちろん、彼女はとても特別な声の持ち主だ。

OIT:それに領域も多様だよね。オペラもやれば、高音も低音も出るし。
PC:まあね。でもそれは僕の頭になかった。というのは、映画は元々カラーで撮っていて、後でモノクロにしようと決断した。モノクロにすることで、映画に新しい要素をたくさん持ち込んだ。違う官能を持ち込むことで、より肉感的になり、肉体はより…、まあ、同時に、彼女は亡霊のようでもあり、同時に肉体でもある。ジャンヌの皺も、歯も、首筋も見える。そして亡霊たち。ニコも、マルレーネ・ディートリッヒ、過去の女優たちなど様々な存在が見え隠れする。僕がかつて知っていた女たちも見える。それは音楽のせいかもしれない。音楽はあまりに力強く、音楽も映像も喚起させる力がすごくある。より考えさせられるし、旅をしたいと思うようになる。でも特定に誰かに言及することは意識していなかった。今となれば、みんないろんなことを言ってくるけどね。これが見える、あれが見える、これを思い出す、あれを思い出すってね(笑)。でも自分ではなかったね。

OIT:彼女はとてもリアルに見えるし、もちろん、これまでにない感じだけど、もしかしたら、素の状態でも女優である自分を演じているように見えることがある。だからそんなリアルさと、作られた部分も、あなたの映像がもたらしているのではないかという気もするんです。
PC:まあね。彼女が女優だということは忘れたことがない。でもそれはいつも僕に起きる。僕がふだん作っている映画、僕がより頻繁に仕事しているフォンタイーニャス地区においてもね。それはアンディ・ウォーホル的なことだ。本当に彼はすごいと思う。素晴らしい映画作家だし、映画ではあまり有名じゃないけど。映画がいいという人も確かにいるけど、あまり認知はされていない。ストローブみたいなものだ。アンディ・ウォーホルの映画に行くと、特に長いものだと、時に映画館は満席でソールド・アウトの状態なのに、上映の最後に近づくと、4、5人しか残っていないんだ(笑)。

OIT:(笑)そうですよね。
PC:アンディ・ウォーホルは絵画で知られていても、映画作家としてはあまり知られていない。『チェルシー・ガールズ』という映画を見る時、とても大事なのは、それがシリアスなテーマで、悲劇的で、コミカルで、何も起きていないように見えるけど、同時に、あらゆることが起きている。だから彼のように、僕のいる地区のヴァンダや女たち、ヴェントゥーラと男たちにはスターになってもらいたいと思っているんだ。本物のスターに。もちろん、違うタイプのスターだけど、彼らによく見えてほしいし、いい気分になってほしい。興味深いことを口にして、最高の状態で立てるようにしながら、実人生よりもずっと大きな存在でいてほしい。
僕は小さな映画が好きじゃないんだ。ただ小さいだけの映画は。ドキュメンタリーも。映画はもっと大きくて素晴らしいものでないといけない。もっと豊かでなければ。小さければ小さいほど、全く予算がなくて、本当に規模が小さくても、もっと大きく考えなければいけない。それは野心とも違うし、豊かでなければいけないんだ。

OIT:そうか、意図的に小さな映画を撮りたい、というのとは全く違うんですね。
PC:小さな映画を作っている、映画祭用の小さな作品、という考えが好きじゃない。たくさんの映画祭があって、そんな人たちが来て、みんな謙虚だけど、僕は『アバター』やタランティーノらと同じところに並んでいたい。もちろん、民主的じゃないとね!

OIT:(笑)いろんな声が必要ですからね。
PC:でないと、完全に阻害されてしまう。“本物”の映画と、あとは誰も見えない映画に分かれてしまう。誰も意に介さない映画に。

OIT:ジャンヌの撮り方も、ヴァンダや他のフォンタイーニャスの人たちと同じようなカメラ・ポジションで捉えることは意識しましたか?
PC:最良の方法、というか、僕なりの方法を見つけようとしているだけさ。

OIT:では、一貫した映像美学を突き詰めるより、その瞬間に必要なことを見つけているにすぎないのですか?
PC:それに(大事なのは)ジャンヌだけじゃない。彼女だけが宇宙の中心じゃない。映画の中心でも、空間の中心でもない。空間もたまにおもしろいと思う。例えばオペラのシーンも。彼女はオペラのシーンでは映っていない。他のシーンにいたかと思えば、彼女の姿は見えなくなる。ピアニストしか見えない。彼女の姿は見えなくて、声だけが聴こえるのは、ロマンティックでさえある。ピアノ・プレイヤーの弾き方もそうだ。僕はそれに魅了された。彼女は上手のスクリーンの外にいて、あとはピアノがあるだけ。というのは、僕が少しカメラを動かすと、彼女がスクリーンの外にはみ出てしまったんだ。それはとてもリスキーなことだけど、その方が良く見えると思った。彼女の姿が見えないことで、彼女の存在がより際立つ結果となった。たぶん、空間的な魅力も僕の興味を引いたんだと思う。その瞬間に選びとる様々な状況や関連性も作用してくると思う。様々なことを(その場で)決断しなければならないので、その決断にも、今までしてきたこと、見てきたこと、好きなことが作用している。分析できるのはその後だ。それがなぜかは僕には説明できない。

OIT:完成した後で自己分析することはありますか?
PC:いや、それはないね。でもこうして話している時に少し分析することはあるよ。こうやってたくさん話さなければならなくなるから。答えがなくても、(聞かれれば)答えなければいけない時もあるからね(笑)。何かを見つけなければならない。僕らにできる最高のことは、説明不能なことだ。説明できないことがあるんだ。写真(の世界)ではもっと難しい。ある写真がカルティエ=ブレッソンやロバート・フランクの傑作だとしても、それを言葉で説明することはできない。(適当な)言葉が見つからないし、当てはまらないかもしれない。でも(ひとつは)確固とした、あくまで機械だから、セッティングをして、アングルを選び、距離と露出を決めるという意味ではとても実利的でリアルだ。でも、もう一方の要素が入ってくると、それはかなり不自然で、強いて言えば、幻想的かもしれない。それは自分の中で出来上がっているものだ。母親、父親、祖父から(もらったもので)自分では思い出せないことも多い。何かを思い出すためにやることもある。以前に起きたこと、見たものなど。それがまた別のものを喚起させ、様々な出来事の連鎖があり、時間の終わりまで進むことができるため、永遠にその源泉を見つけられなくなってしまう。それはいいことでもある。うまくできた実感があれば、同時に、失われるものもある。かつての感覚から失われるもの。正確な答えなどない。正しい答えは永遠に得られない。それはひどい感覚だ。今の映画学校では正しい答えが求められている。AかBか、どちらかを選べば、満足する。(でも本当は)AでもBでもなく、AとBの間の何かを見つけるのがいい。それはAとBの間のどこかにあるのかもしれないけど、僕にも正しい答えは見つからない。映画でも、映画学校でも、人生においても、みんながそれを求めている。でも正しい答えなんてないと思う。どんなことにも、たったひとつの答えなんてないんだ。

OIT:でも撮影が終わり、編集をしている時などは特に、正しいと思うことを選択しなければならない瞬間があると思うけど。
PC:うん。もちろん、そうだね。


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