OUTSIDE IN TOKYO
TALK SHOW

ボックスオフィスの彼方に ~興行の縁で映画を考える~
バーバラ・ローデン『Wanda』上映後のトークショー

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東京日仏学院の映画プログラムとの関わり

松井:ここからは坂本さんのことを色々聞きたいと思います。いまは東京日仏学院の映画プログラムディレクターということですが、そもそもいつから現在の職をに就かれたのでしょう?
坂本:そういう質問が来るのかなと思って(笑)、一応自分で思い出してみたんですけど、だいたい1995年ぐらいですかね。
松井:15年前ですか。
坂本:そうですね。
松井:東京日仏学院という場所は、皆さんご存知の方も多いと思うんですけど、ちょっと謎な組織と言えば謎な組織ではあります。どうして坂本さんがそこの映画プログラミングに関わるようになったのですか?
坂本:そうですね、東京日仏学院という場所は謎の組織です(笑)。もう来年で60周年になるんでしょうか、一応フランスの外務省の管轄でありながらも日本では今度、公益財団法人になるそうです。今度は大使館の文化部とも融合するらしいし、これからどうなっていくのか、という意味でも謎の場所なんですけれども、多分当初から映画の上映っていうのは何らかの形でずっと行われていたと思うんですね。このチラシの挨拶の文章も書いてらっしゃる梅本洋一さんもプログラムなどを担当されていた時期があるんですけれども。
松井:梅本洋一さんはシネクラブをやってらっしゃったんですよね?
坂本:そうですね。当時はフランス外務省の映画局というのがあって、800本の16ミリ・フィルムを世界各地の日仏学院のような場所(フランス語を勉強しながらフランスの文化を学んで下さいというセンター)に回していたんですね。で、私なんかも学生の時にそういったプリントでシャブロルやロジエを観たりしたものなんですけど。そういった16ミリを世界中で少しずつ回しながら上映していたのですが、きちんとしたストックがないとどんどんプリントは悪くなるし、16ミリをかけられるところも少なくなってきたということで一旦そういうシステムは止めようと。当時、私が1996年くらいに日仏学院に行ってアルバイトをしている時に院長に就任した女性が先ほど紹介したフランス外務省の映画局の局長をしていたもので、彼女が全面的に映画のプログラムを日仏できちんと作っていこうっていうイニシアチブをとって、当時私は「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」という雑誌に関わっていたので、彼女からお声がかかって一緒にその仕事を、まあ一緒にというか、当時は単に彼女に言われるがままに動いていたというか、右も左もあまり分らないままフランスに電話して、このプリントを借りたいんですけどとか、そういう感じで始めました。

アテネ・フランセ時代

松井:それまで、例えば学生時代とかに自分達のシネクラブを企画したり、そういう経験は?
坂本:無いです。ただ今回この行われているプログラムの私以外の4名の方皆さんに私は育てられてきたというか、明日こちらにいらっしゃる松本正道さんが、アテネ・フランセ文化センターのディレクターでいらっしゃいますけど、大学時代はアテネ・フランセ文化センターでもぎり、受付嬢をやっていました。アテネ・フランセの当時の安井豊さんですとか、映写は篠崎誠さんとか、井土紀州さんでしたけれども、皆さんが仕事後飲みながら、あーだこーだ言っているのを耳にはさみながら、フムフムフムみたいな感じで色々学ばせて頂きました。
松井:でも今もときどき問題にされますが、アテネ・フランセって若い女の子がなかなか来ない。
坂本:あー、なんかそういう風に言われてますけど、私はしっかりアテネ・フランセにいて、コツコツとハイヒールの音を響かせていましたけどね(笑)。
松井:なぜアテネ・フランセでバイトしようと?
坂本:とにかく映画で何かをしたいっていった時に、ちょうど受付嬢だったひとりが辞めるというので席が空いたんだと思います。でもここで受付嬢やったら、いくらゴダールが来ても中には入れないからなとか言われたのを覚えています。それでもお前は受付から離れないでいられるのかって試されたりしました(笑)。本当に人の出入りが多いところでしたね、それこそその当時は淀川さんもまだいらっしゃって、淀川さんの塾も聞けたし、地方から皆さん来てらして、淀川さんの話を聞きに来られる方もいれば、黒沢清さんの8ミリをみんなで観たり、あと河瀬直美さんがまだ当時学生さんでらしたのかな、河瀬さんの映画を初めてアテネでかけた時も、やっぱりみんなで一緒に観て、驚いたのを覚えています。そういう場に立ち会えたっていうのは、未だに経験として有り難いなって思ってます。
松井:当時、新しい何かが生まれつつあるという感覚はやっぱりあったんですか?河瀬さん、黒沢さん、篠崎さんなど、彼らはその後、映画監督として素晴らしい活躍をしていくわけですよね。
坂本:今から思っても、今日全体のお話しさせて頂くことも関わってくると思うんですけど、やはり出会いの場っていうのがすごい大事だと思うんですよ。今日もまたその一つであってほしいと思うんですけど、アテネの文化センターっていらっしゃった方はお分かりのように事務所もものすごく小さいですし、場所も本当に小さい所ですけど、たくさんの人が行き交う場所なんですよね。松本さんっていう方のキャラクターとか人徳でもありますし、当時スタッフの一人だった安井さんの風変わりなキャラもあったりするんですけど、そこで出会って企画が生まれたり、そこに通っていることでその後何かに繋がったっていう人がすごく多いと思うんですね。そういった場にいたなっていうのを後になって分ったというか。当時はなんかだらだらいる感じで、夕方くらいになってやっと出勤してきた安井さんと飲みに行って、いろいろなことを分からないながら聞いていただけのような。青山(真治)さんもよく安井さんのとこに来て、だらだら話をして帰って行って、そうこうしているうちに『Helpless』(96)みたいなすごい作品を撮られるようになって……、その当時はそんなに深く考えなかったんですけど、後になってあそこの場所からきっと何かが発信されてたんだなって、思いますね。
松井:そういう場にいられるか、いられないか。それも才能なんでしょうね。場にいられる才能っていうのがおそらくあるのではないでしょうか。
坂本:才能っていうか、やはり映画を観ることも上映したりすることに携わることも作ることも、才能っていうか匂いか何かを感じたらもうくっついて行った方がいいと思いますね。くっついて行くっていうか、やっぱりその方向に自分の体をもっていくしかないと思うんですよね。色んなシステムをもちろん変えていかなければ今のこの状況は打破できないと思うんだけど、やっぱり一番大事なのは作り手にしても書き手にしても見せる側にしても、自分の嗅覚や感覚を研ぎすましてそっちに行くしかないですよね。

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