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F. GARCIA × S. MIYAKE DIRECTORS TALK

『聖者の午後』フランシスコ・ガルシア×『Playback』三宅唱:監督対談

3. ディストピアの更に先にあるもの(三宅唱)

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三宅唱:でもどうだろう、映画を見ている時でさえも退屈ですか?
フランシスコ・ガルシア:それを言えば、映画を見る時っていうのは唯一幸せだし、自分が解き放たれたと感じる瞬間です。映画を見に行って自分の世界から別の世界に行ける、別の心理状態に行けるので、唯一その時はつまらなくない瞬間を過ごしてるんだと思います。

三宅唱:なぜこんな質問をしたかというと、僕はこの映画の登場人物の三人が、映画を見に行けばいいのにな、ということを思ったのです。でも彼らは映画を見ない。それはなぜでしょう? 実際、ブラジルの若者にとって映画はどういう存在ですか?
フランシスコ・ガルシア:脚本の時点では、おっしゃる通り、映画館に行かせることも考えたんですけど、やはり自分とは離そうかなっていうのがあって、映画館には結局は行かせなかった。もう一つは、あの三人の中ではタトゥーをするお兄さんは少し洗練された趣味を持っているので、自分が見に行きたいと思うような映画を見に行くかもしれないけれども、あとの二人は多分行かない。やっぱりアートシネマを見に行くのはそんなにたくさんの人達じゃなくて、中流の上くらいの限られた人達で、そうでない人達にとって映画はブロックバスターであって、ブロックバスターは私達にはちょっと関係のない話だから、映画に行かないとすると彼らは退屈なので、お酒飲んでマリファナ吸って煙草吸って、退屈を紛らわせようとする、紛らわせたところで何も起きないし、彼らには見通せるような水平線も地平線もない、あるのは不可能な壁ばっかりということを強調する形になっているわけです。やっぱり私としては現実を常に意識していかないといけないと思う。

三宅唱:同じ二時間ならば他のことをしているほうが楽しいから多くの人が映画館に行かなくなっている状況が日本にはあるし、恐らくブラジルもそうなのではないかと推測します。映画をつくるときに現実を意識するという点をより詳しく聞きたいのですが、映画は現実を描写するものなのか、その現実を変えるための手段なのか、あるいは何だと考えていますか? 映画は退屈なものではない、単なる消費の対象ではない、ということと関連してお聞きしたいです。
フランシスコ・ガルシア:日本で映画に行く人がどんどん減っているという話、これはブラジルでも同じだと思う、日本の場合は比嘉さん(配給会社Action Inc.)が説明して下さったんですが、例えば映画館に映画を見に行くと20ドルくらいして高い、ブラジルの場合はそれより少し低いけどやっぱりかなりお金をかけて行かなきゃいけないので、人々が離れていく一つの原因だと思います。おっしゃったように、例えば、大型テレビがもうみんな家にあったり、ケーブルテレビで色々なチャンネルがあって、ネットも繋がっていたりすると、人々はそっちの方に流れて映画に行かなくなった。でも、映画館に行って映画を観るのは一つの人間関係を作るという構造でもあると思うんですよね。みんなで一つの所に集まって暗い所で映画観る、そういう社会的関係を持つ機会を、映画を見に行かないことによって失っているのは残念なことですよね。もう一つ、現実に対して自分をコミットさせていくっていうことですけれども、現実に対してコミットはしてるんですが、それは必ずしも現実を客観的にただ単に記述してるということではなくてですね、ドキュメンタリーでもそうですし、もちろんフィクションでもそうなんですけれども、イメージをレンズを通して見た時に、そこで見ている自分の主観的なものが出てきているということを否定できません。そのことに同意はなさらないですか?別の考えを持っていらっしゃいますか?

三宅唱:根本的な部分では同じ意見を持っています。何を撮り、何を撮らないかということ自体が映画監督の世界観であり、一人の人間としての生きる態度だと思います。それに意識的であろうと無意識的であろうと、映画監督と現実の関係性は1カット毎に自然と滲みでるものだと思います。また映画が面白いのは、個人表現にとどまらないところです。カメラマンやスタッフがいて、役者もいるわけだから、チームとして映画と現実に関われる点が僕にとっては面白い。
フランシスコ・ガルシア:同感ですね、やっぱりチームで働くって凄くいいことだと思うし、映画ではみんなと一緒に何かするという経験が出来る仕事ですよね。自分の場合はあんまり撮らないので、撮る時はやっぱり自分と親しい人達と一緒に仕事がしたいっていうのは凄くあります。もっとたくさん撮れれば、好きな人達と一緒に仕事をする機会を持てるので、是非もっと撮りたいと思っています。

三宅唱:『聖者の午後』の中で最後に雨が降りますよね。ここまでの話にあったように、今の時代はポストパンクであり、ポストモダンであり、ディストピアの世界が広がっているということについてお話したいのですが、多くの人がそういう認識で生きてきたように思います。いまのような毎日がずっと続くのではないか、ディストピアが永遠と続くのではないか、つまり雨が止まないんじゃないか、という風に僕も考えていました。でも三年前に大きな地震があった日、ずっと続くかもしれないという体感は完全に切断されました。少なくとも僕は、とにかく以前とは完全に変わってしまったと感じています。だから僕はこの映画を見たあとに、劇中では彼らが雨に座ったまま立ち上がりませんが、立ち上がった後にどうするのか、雨は降り続くんだろうか、ということを考えました。僕の意見ですが、やっぱり続かないだろうと思うんですよ。カップルに子供が生まれるとか、あるいは婆ちゃんが死ぬとか、その時点でかれらは明らかな変化に直面しますよね。あの後どのような未来があるのか、どう考えているのかを知りたいです。これはもしかすると、監督が今後撮られる映画に繋がっていくのかもしれませんが。


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