OUTSIDE IN TOKYO
HANAYO OYA INTERVIEW

大矢英代はなよ『沖縄スパイ戦史』インタヴュー

2. 波照間島に1年住んで、“戦争マラリア”の体験者と共同生活をしながら取材をしました

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大矢英代:そこで、大学院の1年生の時、2009年の夏にインターンシップを経験しました。八重山毎日新聞社という、石垣島の新聞社があって、そこで3週間インターンをして、その時に初めて“戦争マラリア”のことを知りました。8月15日終戦記念日の新聞の第一面が“戦争マラリア”だったんです。私の場合は関東で生まれ育っていますので、戦争というと広島、長崎という連想になるのですが、それとは全く違う“戦争マラリア”という話が出てきて、記事を読んでみると、アメリカ軍は上陸しなかったけれども、日本軍の命令で“強制移住”させられて多くの方々が亡くなったという、読めば読む程、一体何が起きたのか分からなくて、そこから自分で色々なことを調べるようになりました。

それで現地の人の話を訊いていくわけですが、皆さん、そんなに話したくはないですよね。急にやってきて、お前は誰だ?っていう感じですよ。そこで、自分が相手の立場だったらどうしてほしいかな、ということを考えたんです。少しでも時間を掛けて、相手と接しながら、人間関係を作りながら取材をしていくしかない、そういう方が相手に姿勢も真摯に伝わるし、そういう相手だったら話してもいいかなと私だったら思うかなと思って、学生で時間もあったので1年間休学して八重山に移住したんです。波照間島に1年住んで、戦争マラリアの体験者と共同生活をしながら、サトウキビの収穫とかをしながら戦争マラリアの取材をしたんです。ですから、今回の映画で出てくる波照間の人たちは、私がその当時一緒に住んでいた人たちなんですよ。
OIT:ということは、今回の作品はこの映画のために取材をしたというよりは、最初に“知りたい”という欲求から始まって、現地に住み始め、そこから、結果的に映画として結実することになるものが始まっていたということですね。

大矢英代:そうですね。それが2010年の冬のことでした。それから、2011年の秋にかけて。
OIT:波照間島で生活をしたわけですね。

大矢英代:そういうことですね。映画に、11名の家族のうち、9名を亡くしているお婆ちゃんが出てきますよね。浦仲孝子さんという方ですが、そちらのお家に一緒に住まわせてもらって、日常生活を送りながら戦争体験を聞いていました。
OIT:最初は不思議に思われませんでしたか?

大矢英代:もちろん、そう思われました(笑)。でも、最初浦仲のお婆ちゃんに会った時に、顔が凄く奇麗って思ったんです。皺だらけの顔で、凄く彫が深い、畑とともに生きてる人って、こんなに奇麗なんだって思ったんです。肌が小麦色に日焼けしてて、自然の中で生きてる人の顔って美しいなって、私が惚れてしまったんです。それで東京に帰ってから手紙を書いて、大学院を1年休学するから、そちらに住まわせてほしい、戦争マラリアのことをもっと知りたいし、自分でドキュメンタリーを作りたいから、受け入れてくれませんか?とお願いしたんです。
OIT:大矢さんは、その頃から、今回のこうした主題を、文章ではなくて、映像で伝えたいと考えたわけですね。

大矢英代:私自身は文章を書くことも好きなんですが、戦争体験者の取材をする中で、相手と話していると、今この瞬間って凄く貴重だなって思うんです。もう今、明日にも失われてしまうかもしれない、その姿や、お爺ちゃん、お婆ちゃんたちが苦しみながらも絞り出す、その声とか、そういうひとつひとつの瞬間が凄く愛おしく、大切だなと思うんです。それを表現するには、やはり映像だったんですね。もうその時でも、“証言の最後の時代”と言われていましたので、本当にそういうことを感じたんです。私が今、これを撮らなければ跡形もなくなってしまう、すごく大事なものと接しているという感覚があって、それを伝え残すという意味で映像を選んだのだと思います。

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