OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『ジョギング渡り鳥』インタヴュー

4. 映画を作りながら、どんどん“逸脱”を繰り返していく

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OIT:ジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』はブッシュ政権の時の映画でした、やっぱりアメリカの国内でも、ブッシュ政権に対して、もういい加減にしろよって多くの人が思っていた頃の映画でしたよね。それで、映画の中では権力者が暗殺される。それから日本では3.11が起きてしまい、その後、今、監督がおっしゃったような感覚を多くの映画作家、日本の映画監督は持ってらっしゃるのではないかなと、思います。
鈴木卓爾:そうなった時にやっぱり一度、思っていた映画作りみたいなことから、自分も含めて解放させないといけないという気持ちが強くなったんです、『ポッポー町の人々』もそういう映画なんですね、各場面としての整合性が全然とれてないけど突き進むような映画であるということ。僕、大学時代の8mmからずっとそういうことをやっていたものですから、映画自体がその映画を作り続けることでどんどん成熟に向かうとか、切り詰めて研ぎ澄まして達成に向かうみたいな感じではなく、ずっと拡散し続けるような、なんかそういうルール感みたいなものが見出せないだろうかっていう感覚がありまして。『ジョギング渡り鳥』の準備をしている時に中川ゆかりさんっていう純子役をやった子が、アイディアを持ち込んだんです。昔ルクレティウスっていう人がいてギリシャの詩人で哲学者だったんだけど、エピキュリアンスクールっていうのをデモクリトスとかと一緒にやってた、まあ神様はいないと、世の中に神様なんてのは実際いなくて人間は死んだらそれまでよと、だから生きてる間に快楽を楽しんだ方がいいんだみたいな考え方のエピキュリアンスクールという会派がいて、そのルクレティウスという人が原子核というのは予測不能の動きを見せることがある、それを“クリナメン=逸脱”という。僕はたまたまミン&クリナメンという、泯比沙子さん率いるニューウェーブの頃のバンドがあって、“クリナメン”っていう言葉を知ってるなと思った。ステージで蝉を首に下げてて、生きてる蝉を食べちゃう(笑)、ちょっとそういうスキャンダラスなことをやりながらのバンドだったんですけど。僕達はそうやってクリナメンしていくんだ、こうやって映画を作りながら、どんどん“逸脱”を繰り返していくっていうのは映画を撮っていく上での方針としていいなと思ったんですね。中川さんからそういう提示を受けた時にまさしくそういうものをやりたいと。
OIT:素晴らしい。
鈴木卓爾:素晴らしい。俳優だからって中身に加われないんじゃなくて、そこらを辺すごくゆるくして色んな考え方を募集もしたかった。どうやって作っていくっていうのを、言わば集団で作っていくっていうことの役割がきっちり出来てるのがいいチームワークではあるんですけど、何よりもまず優先するのは僕達の遊びなのだという感覚でこの映画が作られたらいいなっていうのが大きかったし、だから俳優達にはギャラは払ってないんです、ほぼ僕のお金で作るっていう。
OIT:そうなんですか?
鈴木卓爾:そうなんです、だからほとんど自分のお小遣いでレンタカー代と合宿所のお礼とか雑費とか出せるものは出して、スタッフで加わっている中瀬君とか、一期目は録音部もいなかったんですけど、二期目の音響の川口(陽一)君とかスタッフにはちょっとお礼を出すっていう、まあ安いんですけど。
OIT:ノーバジェット映画。
鈴木卓爾:ノーバジェットですね。それで一期目の撮影を終えて、やっぱりなんか撮りきれてない人物がいる。そこが俳優としてまだちょっと追いかけきれていかないんですよね、十何人もいると。それで1回編集をしてみようということになって、夏にアクターズの人達3班に分かれてもらって3バージョン作ってもらったんですけど、それをみんなゲラゲラ笑いながら見て、それでそこから二期目の撮影で今回は何が足りないのかをすごく慎重に考えて、登場人物達の描写としてまだ撮りきれてないものと、当初あったエンディングの方に向かっていく後半の流れを二期目の撮影で5日間で全部撮ったんです、それで撮影が終了して編集が始まった。だから一期目の時に撮ってた撮り方の拡散のさせ方から二期目の撮影の時にはもうちょっと意識が絞り込まれてきていて、そこでみんなが何をするべきかという流れが見えたんですね。この人達一人一人がどっちを目指すべきか、そこが見えてきた時にこの映画は物語がだんだん見えてきたんだなぁという風に思ったんだと思うんですよ。そうやって自分達で撮ってみて自分達で見てみて、これは映画なのかどうなのかすごく問い続けながら今に至るっていう作り方だったんではないかなと思っています。
OIT:僕は拝見して、いわゆる「映画的」であろうとする映画ではないけれども、映画でしかありえないというか、そういうものが表現されていたなと思ったのは、やっぱりモコモコ星人ですね、あれが天使にしか見えなかったという。
鈴木卓爾:それはすごく面白いですね。
OIT:映画を撮る人達っていうのは一種の天使的(であると同時に、悪魔的でもあるよう)な人たちであってほしいという、僕の単なる願望かもしれませんが、天使的なちょっと人間界から外れている所にいる人達で、その人達が映画を撮ってくれるおかげでスクリーンに、美しかったり、醜かったり、真実であったり、嘘であったり、そういうものが映画として今存在出来ていると思うんです、映画的な映画を含めて。それがすごく良かったなと思うんですよね。
鈴木卓爾:天使って弓矢持ってたり、ハープ持ってたりしそうですよね。槍持ってたりもする人もいる。
OIT:妖精から何から、色々な天使がいて、堕天使もいる。
鈴木卓爾:『ベルリン・天使の歌』(87)で甲冑が落ちてきますよね、置き土産っていうか、手土産的に空から(笑)。
OIT:それって見える人にしか見えなかったりするんで、それを可視化するのが、『ジョギング渡り鳥』では、この入鳥野(ニュートリノ)町ですよね、小柴(昌俊)さんがカミオカンデで発見しようとしたニュートリノ。
鈴木卓爾:ノーベル賞を獲った人ですね。
OIT:カミオカンデの装置を使って初めて存在が実証された。
鈴木卓爾:観測の仕方が分かったんですよね。


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