OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『ジョギング渡り鳥』インタヴュー

5. この映画は、お客さんに段々見えてくる、
 その見えてき方がそれぞれ全く違うんじゃないかな

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OIT:この映画は独自の観測の仕方によってモコモコ星人を可視化しているから町の名前がニュートリノなのかなって思ったんですけど、そうではないですか?
鈴木卓爾:そうなったんです(笑)、つまり最初からそれはね、分からないんです、ただ勘で作ってる。よく三題噺とか言うじゃないですか、お題を三つ加えて話を作ろうみたいな、そうやって全く無関係に思えるいくつかの要素を持ち合わせて映画を作ろうとした時に、関わっている人達の状況とか、何か立ち上がってくるものってあるんだろうなっていうことと、ただそうやって行き当りばったりで作っていったものっていうのは、だいたいいつもカオスに向かうし、終わらせ方が難しくなる、という危険性はすごくあるなぁとか思いながら、でもまあ場当たりに作っていくこと自体のトライをしようとしていること、だからこういう失敗をするんだみたいなことも含めて試みなきゃいけないっていう切迫感がありましたね。見えてきたものってさっきおっしゃいましたけど、確かにこの映画って最初は本当にみんなまだ人間として映ってるけど“側”があやふやでなんなのかよく分からない。一期目と二期目の撮影っていうのは必ずしも順番に撮っているものをそのまま繋いでるわけじゃないんだけれども、結構後半の方が二期目の撮影の要素が増えているのは事実で、お客さんも、僕らもそうなんですけど、何を撮ってるのかよく分からないけど進んでいくうちに徐々にお互いの意識の持つ方向みたいなものが見えていくようになって、ひょっとしたら映画になっているのかもしれないと思い始める。みんな映画って始まった時から見えてると思い込んでるけど、実は何も見えてないですよね。何かが見えてるように可視化していくのは、一つはシナリオがあったり、その登場人物の生活を追いかけて行くとストーリーが見えてきたり、そこで何か問題が起きて事件が起きてってことをやってる、その経過報告みたいなことを今回は全く無視をしているので、多分この映画は、お客さんに段々見えてくる、その見えてき方がそれぞれ全く違うんじゃないかなと、違うとしたらいいなと思ってるんですけど。
OIT:僕に見えてきた見え方としては、天使的なものという風に見えたんですけど、それは例えば、ナンニ・モレッティの『母よ、』(15)では、お母さんが亡くなっちゃうわけですけど、そのお母さんが教師なんですね、亡くなった後に教え子だったっていう人が家を訪れて来て、いつも僕に色々質問をしてくれたと、僕は先生がいつも色々な質問をしてくれるから自分が重要な人間だと思えた、だから先生と会うのが楽しみだったという、そういうエピソードがあって、『母よ、』では、そのシーンに凝縮して天使的な存在である母親のことを伝えているわけなんですけど、『ジョギング渡り鳥』の場合は、そういう天使的な存在であるモコモコ星人たちが、みんなにカメラを向けることで、向けなければ捉えることが出来ない瞬間を捉え続けることで、人を孤独から救っている。それをショットに凝縮しないでまさに拡散させることで、『母よ、』と同じような美しい何かを伝えている。それが映画のあり方として、ひょっとしたら新しいことなのかもしれないということを感じたんです。
鈴木卓爾:もはや僕にはこの『ジョギング渡り鳥』を、全く知らない人が見たらどう見えてるんだろうって、実はよく分かってないんです。この映画が出来て段々に色々な初めて見る人に見せていく時ほど怖いことはなかったですね。今までは『ゲゲゲの女房』(10)でも『楽隊のうさぎ』(13)でもやっぱり内側で相当シナリオを叩いてるし、どういう風にこれは届くんだろうっていうことはある程度検証しつくして編集もされてるんですけど、そこら辺は全部、やっても無駄だっていうレベルで、そういう物語として全うに繋がってる要素というのが撮れてないわけですよ。だから最初にこれを見た人たちからはは「これ言葉にしずらいですよ」って、やっぱり何名かから言われて「そうですよねぇ」って。じゃあ逆に何が面白いですかねって聞いたぐらいで。
OIT:結局フィクションが立ち上がるというか、フィクションを作るというのは何かということ自体の面白さがありますよね、見た人が、感想を言うのもフィクションを成立させる要素のひとつだと思うので、それを語ること自体の面白さを観客に与えてくれるという部分はボトムラインでありますよね。
鈴木卓爾:そうだとすると、手としてはやっぱり僕らが模索してること自体が映画を発見しようとしてるんだろうなと、もし言っていいんだとしたら、そのまま劇場でこの映画を見て下されば、その先をちゃんとやってくれるんじゃないかな、お客さんが。そこにすごく期待してるっていうか、今回も試写で見に来てくれた人達にすごくコメントをたくさん書いてもらって、やっぱり色々な見方をしてくれてるんだけど、予め受け取りやすいストーリーがないもんですから、本当に多種多様な受け取られ方をしてくれているんですよね。言葉にならないものって言っちゃうとどこか責任放棄に聞こえるかもしれないんですけど、やっぱり映画が立ち上がる瞬間みたいなことを感じてもらう、それは僕らが映画の現場でアクターズ・コースの人達とこれが映画なんじゃないかなみたいなものを探っているプロセスと重なる。そこに予定調和性からすごく遠いものを期待してるというか、なんかそういったものを映画で証明するということをしないと、行き来したものが捉えずらくなっていく、なんかすごくそういう気がしてしまうもので、だから実験映画と言われても構わないと思うんですけど、ただこういう形のフィクションがあってもいいのではないだろうか、ということはすごく言えるんですよね。最初のシーンよりも徐々にその人達の見え方が深まっていったり、最初の段階で決めるのではなくて作られていくっていうこと、その方法論そのものみたいなところにどれだけのお客さんがお金払って見てくれて感づいてくれるんだろうっていう、すごくそこに期待したいなぁって思います。


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