OUTSIDE IN TOKYO
LECTURE

エミリー・コキー「ジャン・エプシュタインについてのレクチャー」

7. エプシュタインのギャラクシー

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エプシュタインが誰なのかということを簡単にご説明するためには、他の人の名前を出さなければなりません。彼に協力をした人々、友人、あるいはインスピレーションを与えた人々です。まず有名な作家サンドラールがいます。サンドラールはエプシュタインを発見し、1921年に「Bonjour cinéma」の出版を決めたのです。この本のお陰で、エプシュタインは一躍、重要な若い映画作家の一人と見なされるようになりました。

ラバルトは「第一の波」の中で、エプシュタインの文章を朗読しています。
「私は出会いの不安が好きだ。事件は嫉妬した足のように我々の足を掬う。物語の結末は、要所から要所への移行以外の何ものでもない。だから感情の高さがひどく変わりすぎることはないのだ。悲劇は人生のように連続的なものであり、動作はそれを映し出すだけで、進めも遅らせもしない。ではなぜ、順序だった事件、年代、段階的な事実、感情を前提にした物語を語るのか?展望は視覚の幻想にすぎない。次々と引き出せる中国の入れ子の組みテーブルであるかのように、人生を縮小することはできない。物語は存在せず、一度も存在したことはない。存在するのは頭も末尾もない、始まりも中間も終りもない、表も裏もない状況だけだ。それはあらゆる向きから見ることができる。右が左になる。過去と未来の限界をももたないから、左右両方が現在なのだ。」

レジェによるエプシュタイン(左)、ジャン・コクトー(中)、サンドラール(右) ©DR

エプシュタインは本当にスピーディーです。彼の『三面鏡』の素早い編集と、エプシュタインの文章のラバルトの早口の朗読が響き合って、様々な考えが誘発されます。エプシュタインのギャラクシーを語るためには、出会いのことを話さなければなりません。とても有名なフェルナン・レジェという画家、同じくとても有名なジャン・コクトー、そしてカニュードとの出会いがありました。カニュードは作家で、20年代から既に映画が絵画や彫刻と同等の芸術と見なされるように努力した人です。そして、サンドラールです。彼らの映像をエプシュタインが撮影しましたが、映画そのものは残念ながら、断片しか残されていません。シネマテークに所蔵されているエプシュタインの未完の回顧録の中に、サンドラールとどのように出会ったかを回想している手書きのメモが含まれています。

「私はようやく自分の草稿(Bonjour cinéma)をサンドラールに渡せた。ニースの巨大なホテルの最上階、暗い小部屋だった。夜だった。私のサンドラールの思い出は全て夜に結びついている。窶れた苛まれた顔、影につきまとわれている顔で、私にはその影と顔とを切り離して考えることができない。手も腕もない袖が時々動き、少しだけ暗闇の中から出て、その袖の中が空であることを暴露する。サンドラールは素晴らしい話を知っている。彼はパンパの王の黄金の水槽に身を浸したことがある。フォンテーヌブローの森、野生の蜜蜂の巣で、三つ葉との友として暮らした。風や幸運を自分の思うままにした。司教冠をかぶる資格のある神父達や、腹を切り裂く人々と親しく話していた。バンクーバーからオークランドまで、ハールレム(*Haarlemオランダ北西の都市)からサマルカンドまで、すべてのアルコール、すべての煙草、すべてのビストロを知っていた。冒険と広大な世界とを彼は娶っていたのだ。」

また、ジャン・テデスコと彼が支配人だったヴィユ・コロンビエが重要です。フランスの前衛、パリの前衛映画の全てをテデスコがヴィユ・コロンビエで上映しました。エプシュタインの「フォトジェニー」という前衛的モンダージュ作品もそこで上映されました。残念ながら、この作品は消失してしまいました。そして、ジャルメーヌ・デュラック。彼女は理論家であり、政治活動家かつ映画作家でした。そして長い間、エプシュタインの見解に従っていました。シネマテークのアーカイブには、彼女とエプシュタインの対談が保存されています。その中で、デュラックは絶えずエプシュタインに対する敬愛を宣言しているのです。先ほどした引用の全文を読みましょう。この文章をここ日本で朗読し、日本映画と関連づけて考えることはとても興味深く思われます。

「私が欲している作品では、何も起こらないわけではないが、たいしたことは起きない。心配なさらないように、間違うことはないから。もっと取るに足らない細部が、悲劇の音を暗示する。このクロノメータは宿命である。この刺を抜く少年の像が、一人の哀れな男の思想なのだ。彼はパルテノン神殿でもそう扱われないほどの優しさをもって、埃をはらわれている。情動は臆病である。高架橋から脱線する急行列車の轟音は、情動が慣れ親しんだ習俗には、常に好まれるわけではない。しかし日常の握手の中で、情動はむしろ、涙に縁取られた美しいその顔を見せる。雨から、どれほど悲しみを引き出せることか!」

右から、ニノ・コンスタンティーニ、エプシュタイン、ラ・ファレーズ夫人
©DR
この文章の中でエプシュタインが述べていることは、特殊効果の不在の重要性です。日常的な仕草によって、多くのことが語れる、雨のショットひとつで、多大な悲しみを示唆できるということです。何でもないかのように、二重写し、素早いモンタージュ、逆パンなどのコンセプトを作り出したのは、アベル・ガンスです。ガンスとエプシュタインは、仕事においても実人生においても、ずっと忠実な相棒であり続けます。未完の回想録でも、エプシュタインはアベル・ガンスと彼の映画について、また、彼の形式上の発明の重要性について、多く語っています。ニノ・コンスタンティーニにもやはり触れないわけにはいきません。右の人です。俳優であり、プロデューサーですが、エプシュタインにとってはインスピレーションを与えるミューズでもありました。この写真は戦後『テンペスト』の撮影の時のもので、エプシュタインの容姿がずいぶん昔とは違います。彼の左隣にいる女性は、ラ・ファレーズ夫人(Madame de La Falaise)です。エプシュタインの映画をアメリカで公開するのに重要な役割を演じた人です。

出版物 ©DR

サンドラールのお蔭で、ラ・シレーヌ(La Sirène)社から出版された「Bonjour cinéma」です。ここでは、エプシュタインにとって転換期である1920年代をめぐって、コンセプトを表すような写真を集めてみました。実験的な出版であり、ほとんどアジビラのような本。二重写し、またイヴァン・モジューヒンのような有名な俳優との出会い。これは『蒙古の獅子』のフィルムの1コマです。モンパルナスのキキ、ジョッキー・クラブという20年代パリで流行していたナイトクラブでの撮影でした。

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