OUTSIDE IN TOKYO
JIA ZHANG KE INTERVIEW

ジャ・ジャンクー:オン『四川のうた』

2. 自分には語るべき話がないと思っている人々に自分の事を語ってもらうこと

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監督は、めまぐるしい変化を続ける中国の“歴史”を記録することに忙殺されてきたとも仰っていましたが。
“歴史”というのは、厳密に近代史のことです。(かつて)計画経済の時代があり、市場経済の時代が到来し、2008年にオリンピックが開催された事実に気づいた時、近代史は、清朝末期から、常に近代化を目指す夢の象徴でした。人々には、そこを目指してきたおかげで、オリンピックも、政府が推し進めてきたことも、総じて近代化の象徴と映ってきたわけです。ところがそれはこの100年で続いてきたことの一部でしかないのです。だから局部的にではなく、大きな視点で見ることによって、新たな位置づけができるのではないかと思いました。新しい出来事も、実はこの100年で行われてきたことのひとつに過ぎないのではと。
映画の最後にチャオ・タオ演じる女性が「たくさんお金を稼いで、親にマンションを買ってあげるの」と話す件がありますが、元々そんな台詞があったわけでなく、役に成りきった彼女が思わず心情を吐露した結果出たもので、私も驚き、興奮を覚えました。なぜなら、思わず出たその一言が、今の中国人の気持ちを代弁しているからです。その瞬間、一般の人々の意識がお金に行っていることが分かったのです。
振り返ってみれば、中国人には集団こそが大事という時代が長く続いてきたわけです。計画経済や社会主義に則った時代には、個人がお金を儲ける方法はあまりありませんでした。生活に困窮し、倒産も増えると、あまり金銭や生活を享受することのなかった個としての中国人は、それまで手に入らなかったものを取り返したいという反動を感じたのではないでしょうか。皆さんもニュースでご存知かもしれませんが、中国には人をさらって働かせる“黒い”炭坑も存在しますし、もちろん、裏で搾取する人間もいます。ではなぜそんなことが起きるのかと考えた時に、かつては社会主義や、様々な体制や国に搾取されてきた人々が大勢いて、本当なら個人が富まなければならないのに、国のために我慢してきたわけです。そんな中、それまでシステムや社会に搾取されてきたものを取り返そうとする人がたくさん出てきてもおかしくないでしょう。現在は決して歴史と切り離せないものなのです。
私は何を見ても、思わず歴史を連想します。今回、取り壊されたのは<420工場>ですが、前作(『長江哀歌』2006年)では町全体が消えてしまう話でした。でもなぜあれほど歴史的痕跡のあるものを壊すのだろうと考えた時、やはり歴史に根づいているのだと思いました。文化大革命時代の中国では、古いものはすべからく良くないという“否定”があった。それはそれまでの中国をすべて捨てようとするものでした。断面で見ればそれだけのことでも、よく考えれば、五四運動の時代にも、実は過去のものを否定しようという動きがあった。それでなぜあっさりと壊せるのかも理解できる上、現在やこの先のことを理解するためにも歴史が大事になるんです。

<420工場>の工員たちが人生を語る時の表情や眼差しの美しさに感動しましたが、彼らは最初から心を開いてくれたのでしょうか。彼らの自然な表情を引き出すのにどんな工夫をしましたか。
正直なところ、取材はとても困難でした。実感として、(まず)あれだけの人数を取材した経験がなかった。でも大変だったのは、彼らが話してくれないことではなく、なかなか自分の話をしてくれないことでした。しかも勇気がないからではなく、自分を大事と思っていないからです。全体として生きてきた時代があまりに長くて、自分を大事な存在とは思えず、自分の話など聞いてどうする、と言いたげでした。それで他人の話ばかりになる。でも私が聞きたかったのは、一般の人である“あなた”の話だ。特殊な人生を聞きたいのでなく、一般的な“皆さん”の気持ちや普遍的な話が知りたいのだと伝えても、理解してもらえるまでに時間がかかりました。
短時間で取材相手に信頼されるには、自分を知ってもらわねばならず、買い物につきあったり、麻雀をしたり、より身近に接触することで、あなたの話が聞きたいと伝えるわけです。自分には語るべき話がないと思っている人に、あなたの話が聞きたい、と信用してもらうことが大切でした。でも実際にはみんな話がばらばらで、その人の人生のどこにドラマがあり、何がポイントかを注意深く聞いていく必要がありました。切れ目なく話す人もいて、例えば、ホウ・リージュン演じる、バスで取材される女性が、「実は今でも覚えているのは、瀋陽から成都へ移転した時…」と話せば、ああ、この人は移転の時代を覚えているんだなと、話をそっちへ持っていきました。ずっと話を聞きながら、「私の(故郷の)町で失業して」と聞けば、よし、そこだと、その人の人生で、ここがドラマ、ここがポイントというところをなるべく捉え、話を集中させるようにしました。瀋陽から成都への移転話の中で私が感じたのは、生き別れの想いです。交通が発達していなかった時代に、遠い場所へ行くということは、生きながらにして、いつ会えるか分からない気持ちになる。そんな取材する側とされる側との共同作業があったのです。

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