OUTSIDE IN TOKYO
JIA ZHANG KE INTERVIEW

ジャ・ジャンクー:オン『四川のうた』

4. 流動的で自由に、自分の撮影スタイルを探っていきたい

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取材対象を探すのも大変だったと思いますが、どんな苦労があり、どれくらいのインタビューを取りましたか?また聞こえてくるインタビュアーは監督の声ですか?
私は成都での生活経験もありませんし、友人が大勢いるわけでもない。工場自体の存在も、機密工場だったため、外部に公開されることがなく、とっかかりがありませんでした。そこで地方紙<成報>に広告を3日間出しました。「<420工場>の歴史を知りたい監督がいるので、ご存知の方はこちらへお電話を」と。するとたくさん電話がきた結果、色々な方に会い、撮影対象を選んでいきましたが、いい話がたくさん聞けた人もいれば、5、6分も会話が続かない人もいました。本当に色々な人がいて、話を聞いていると、知っているか否かだけでなく、「テレビのキャスターがあそこの息子で」みたいな話が段々と出てくる。当然100人分をすべて入れられるわけはないので、それらの話は本として出そうと考えています。2007年から2008年の春にかけての1年余り、何度かに分けて行ったものをまとめて。
でも自分の声を聞くのはいやなものですね(笑)。できるだけ編集で切りましたが、相手の話を妨げたくないから最低限の声しか出さなかったのに。それでも編集上(どうしても)残さなければいけないところだけ残しました。
私は主観を前面に、自分の求める答えを得るためだけに話を聞く方法は取りません。聞き役に徹し、予測した方向に持っていくことはしませんでした。

これまでもドキュメンタリーとフィクションの間のような肌触りの作品を発表されていますが、今回は言葉が中心で、少し文章表現に近い方向に動いているとのことで、今後、ドキュメンタリーやフィクションや文章や、先ほど本の話もありましたが、新しい表現方法に取り組みたいと考えていますか。また80年代以降の中国は大きく変化しながら、庶民は変化や困難を乗り越えるのに何が支えになったのでしょう。
今回は撮影から編集まで、どんな手法でやるかも決めず、とても流動的でした。元々は記録映画を作ろうと思っていたところへ、フィクションの要素を挿れてみたいと思いました。ふつうは人に話を聞きながら、例えば50年代の話には50年代を再現したフィクションを作ることが多い。でも今回は人に語ってもらうことを大事にしたかったので、そこをないがしろにしないためにフィクションの部分も語りにしました。昔を撮るのではなく、今を語るフィクションとして、最初から最後まで語りを大切にしたんです。
また取材と撮影を続けるうちに、多くの人が当時聴いていた歌や音楽の話をすることに気づきました。人の記憶を喚起する音楽や流行歌を。でもその手法は最初から決めていたわけでなく、撮影するうちに、これもあれも、という形で進んでいきした。人をポートレートや静止画のように撮る時も、相手もかしこまった、静粛な感じになり、私なりの、取材相手への敬意を表現できた気がします。
さらに自分のイメージした編集で詩も入れました。とにかく、最初から方法論や取材方法が決まっていたわけではなく、いろんなものを取り込んだ結果なのです。ただ今後も必ずこの手法でいくわけでなく、今回のように、わりと流動的で自由に、自分の撮影スタイルを探っていけたらとは考えています。

80年以降、一般の人々が直面した問題があります。仕事を探す時、年齢がいってから違う生活を求めてやり直すのはかなり大変です。新しいことを学び直すむずかしさもあり、ずっと集団でいた人が、急に個人でがんばりなさいと言われても戸惑うはずです。一番傷つくのは、今回の労働者たちに話を聞いても、労働の意義というか、働くことは生存や食べていくためとはいえ、同時に、自分探しのように、この場所に自分がいるはずだという確認作業もあるわけですね。昔は工場で働き、給料も決して高くはないのに、プライドを持って仕事していた。それが急な失業で、レストランの仕事に就いたとしても、給料は変わらないか、むしろ高いくらいなのに、プライド的にやりたくなかったり、自分の居場所ではない、と感じるような葛藤がありました。でもこういう状況は急にやってくることが多く、瞬時に職を失ったり、世界や社会の状況が変わったりすることが多いので、それに適応する準備ができないことがほとんどだと思うんです。話した人も、工場では休みなく働いていたけど、そこが自分の世界だったために何も(辛さは)感じなかったと話していた。むしろ50年働いてから「あんたはもう工場と関係ない」と言われたらどうすればいいんだ、という気持ちがあったようです。
バスで話をしていた、ホウ・リージュンという女性の話からも分かるように、最終的に何をきっかけに、支えにして、何者でも人が自分なりに苦しみ、自立していくというか、自我に目覚めながら、自らの足で歩いていかなければなりません。苦しみながらも、辛さや苦労を支えに、新しい一歩を踏み出していくしか。でも何かが支えになっていたとはあまり思えないんですね。

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