『第三の岸辺』
ネルソン監督作品に顕著なブラジルの土地に横溢する魅力的な環境ノイズを覆い隠してしまうミルトン・ナシメントのサウンドトラックが80年代的な過剰さで空間を支配する冒頭の数分感に若干の不安を感じながら映画を観始めたが、少年だった主人公のリオ・ジョルジが青年になり、美しい女性アルヴァを見初め、結婚、不思議な霊的能力を持った娘ニニーニャを授かるまでが、見事な省略話法で描かれる頃には、いつもの豊かな熱帯の動植物の絢爛と自然界のノイズが溢れ返っていた。
本作でも、天性のストーリーテラー、ネルソン監督の才能は如何なく発揮されているのだが、1994年に製作された本作は、70年代までのネルソン作品とは何かが決定的に違っているように見える(80年代の作品は未見)。それは、本作に明らかに読み取れる、"結局、魔術的な力では現実の生活を変えることはできない"という明白すぎるメッセージのせいであるのかもしれない。所々に、ネルソン監督特有の楽観主義が顔を覗かせはするものの、作品全体としては、悲観的気配が映画を支配している。その変化は、1984年の監督の最高傑作とも言われる『監獄の記憶』に置いて決定的に起きているのかもしれないが、その作品を未見につき、何とも言えないが、本作の特徴は、ポスト『監獄の記憶』期のネルソン監督作品に共通するものなのかもしれない。
ブラジルの民間信仰の中で生きる"魔術的な力"="マジック"を"映画"に血肉化し、"娯楽"あるいは思考を刺激する"20世紀最大のアートフォーム"の最良の担い手のひとりとして、ラテンアメリカの映画界を牽引してきたネルソン監督が"マジック"、あるいは"映画"の現実を変革する力の限界を決定的に感じてしまったかのような悲観的なパースペクティブが、この作品全体をぼんやりと暗い影で覆っているかのようだ。
しかし、実は、その現実における絶望だけが、21世紀の映画のリアリティの出発点である事を知る私たちは、1994年に"マジック"の、"映画"の、敗北を可視化していたネルソン・ペレイラ・ドス・サントスは、やはり、並み居る現代の映画作家たちの10年は先を行っていたのだと言っても良いのではないだろうか。
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