OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『嵐電』インタヴュー

5. 新さんは、また未来に一緒にやるなら、どんなことをしたいかとかを考えさせてくれる人です

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OIT:そういうところが文学性を高めていたのですね。あと台詞が大西さんとか井浦さんとか、とても綺麗な感じがしたんですよね、今巷で言われている“美しい日本”とは全く違う、本来の意味での“美しい日本語”を聞ける映画だなと思いました。
鈴木卓爾:いい俳優さんっていうのは、きっとみんな良い発話者なんだろうなと思ってるんですよね。大西さんも声が凄く涼やかなので、あの体から台詞が初めて出てきたりすると、割と感動するんですよ。もちろん新さんは、そもそも『ピンポン』(02)を観た時からそうだったんですけど、声が美しいので、やはり空気を震わせる感じがありますよね。それはもちろん金井くんもそうなんですけど、この俳優さんに任せた時に台詞が生まれてくるというか、その瞬間って面白いなといつもいつも思いますよね。新さんとは、最初に『砂の影』(08)で共演をして、打ち上げをやった居酒屋のトイレで初めて話をしました。新さんに話しかけられて「卓爾さんはどうやって芝居をしてるんですか?」っておしっこしながら聞かれました。もう一人、トイレで初めて言葉を交わした俳優には、徳井優さんがいます。徳井さんも、そのあと『私は猫ストーカー』(09)『ゲゲゲの女房』(10)『楽隊のうさぎ』(13)に出てもらいました。トイレで初めて話す俳優さんとは、長く続く気がしています。新さんとはその後に、『楽隊のうさぎ』『菊とギロチン』(18)などで監督と俳優や、俳優同士の立場でご一緒して来ました。どこかでおこがましいけど、近さを感じてる俳優さんでした。今回、私信でこの映画に参加してほしいと言うことをお願いしました。新さんの声が好きで、彼って、儚くて気づくていつの間にか消えてしまいそうな眼差しを持っています。逆に、とても熱いマグマを内面に抱えているような気がして、実際そういう演技を映画でも観てまいりました。今回、どうなるんだろう?って思いながら来ていただき、結果、そのどちらでもない「おっさん」ぽさのしかも三枚目みたいなそんな観たことのない新さんがそこにいました。今回、新さんの演じる、衛星さんには特に背景の事情は全く描かれない役で、行方不明の誰かみたいな役どころで、本当に難しかったんじゃないかなと思うんですけど、そのままなにもしないように見えるかのような有り様でそのままそこにいらっしゃったんです。何も頼らないかたち、無防備な居方です。剣術で行ったら、手をブランとさせて殺気を見せないかまえ。でも新さんが映画の中心にそのかまえでいることでこの嵐電の映画の宇宙が重力の中心を得ている、全てのヤドリギになっています。衛星さんはふらふらしてるようで、この移動し続ける電車みたいな映画のまさしくプラットホームになってくださいました。新さんについては撮影が終わってから、今もずっと考えています。新さんのことを。また未来に一緒にやるなら、どんなことをしたいかとかを考えさせてくれる人です。
OIT:『嵐電』は、映画全体の空気感というか、鈴木卓爾監督らしい幻想的なものがありつつ、同時に凄く凛々しい感じがありますよね、これもある種の京都らしさなのか、あるいはこの映画独特のものなのか、京都らしさとは何かってそんなに知ってる訳じゃないので、どうなんだろうなと思いながら観てたんです。
鈴木卓爾:そうですね、京都の人のメンタリティーみたいなものって、あるようでない気もするし、独特な目で見られているのはやっぱり京都という街が美人だからだっていうのは明瞭で、美人というのは多くの人に見られて磨かれているんだろうなっていうそんな感じですよね、京都そのものが。外から来た人がいなければそんな風には成り得ないし、きっとその往来の連続によって磨かれているものって相当あるだろうなって思う中で、だからより京都の人の気質みたいなことが話題になったり、面白がられたり、恐れられたりとかするんだろうなって思ってるんですけど、実は全国変わらないんじゃないかなっていう部分も一方でありつつ、やっぱり注目のされ方は凄く高い、しかも長い年月に亘って高い、それは本当に不思議なことだし、街を見ても何でこれで成立してるんだろうって、凄く凄く不思議なんですよ。ちっちゃい、狭い山に囲まれた中に全てのものが事足りるように集まっていて、しかもちょっと自転車で動くだけでもう都会から田舎にあっという間に移ってく、このスピード感というか、その充足さというのは日本でもちょっと類がない、それは感じます。
OIT:監督はもちろんここで生まれ育った訳じゃなくて他の所から来て、そう感じたものが、ステレオタイプな何かを描こうとした訳じゃないにも関わらず、ある種京都的と言えるようなものがこの映画の中で生まれていると。
鈴木卓爾:京都的な映画っていくつか観てきていて、やっぱり文藝映画みたいなものよりは、『堀川中立売』(10)とか、僕はあれこそ京都的な映画だと思っていて、あとは凄く古いんですけどクロード・ガニオンの『keiko』(79)はやっぱり思い出深いというか、小中学校ぐらいの時にテレビで観ただけなのですが、フィルムで撮られているってこともあるだろうけど、強烈な空気感がありますよね。漆喰や木で作られた街がスタンダードサイズで映されていて、その中を若い人が駆け抜けてくとか、何かやっぱりワクワクしますよね。狭い中の流動的なものっていうのは凄いワクワクするなぁと思っていて、それは自分の人生の中では縁のない高嶺の花みたいな、そんな感じはあります。
OIT:流動性みたいなものは、元々卓爾監督は『ジョギング渡り鳥』でもやっているし、この『嵐電』もまさしく、ですよね。英語のタイトルもそのことを表現していますね。
鈴木卓爾:今回は英語字幕をつけてもらう人に、これ『ゲゲゲの女房』もやってくれた女性で、大津智子さんという方に原題の相談をしてぱっと出て来たのが『RANDEN The Comings and Goings on a KYOTO Tram』、それがいいなあと思って。
OIT:この映画ってある種のすれ違いを結構描いているじゃないですか、それが英語のタイトルにバッチリ表現されているという。
鈴木卓爾:そうなんですよ。でも言ってみれば、とても普遍的なことなんですよね。物語の一つの何かこう行き交う人の視点みたいなことから、一人一人を見ていく映画って、色々あるなとは思っていて。『シェルブールの雨傘』(64)も雨傘がたくさん俯瞰の画の中で行き交うわけですよね、そういうところからこれは出逢いの映画であり、男と女がきっと知り合って別れるんだろうということを予感させたりする、そういうことなんだと思うんですよね。


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