OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『嵐電』インタヴュー

13. 映画というのは学校からしか生まれてこないのかもしれない

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OIT:飲みに連れて行ってそういう映画の話とかされたりするんですか?
鈴木卓爾:しますよ、たまに。そうすると熱く語ったりすることもあり疲れる、結構色々な質問をされたりするので、もうちょっと上手く答えられるようになったらなと思っているところですね。
OIT:でもやっぱり刺激にはなったりしますか?
鈴木卓爾:うん、どうなんだろう、日常になっていったり、学校で映画を教えることの難しさってあるなぁとは思っていて、元々映画の学校に来ようなんていう子は10年前ぐらいまでは学校に行きたくなくて、現実を逃避するために映画館に行っていた、それで大学どうしようってなった時に映画の学校があるんだ、行ってみようってなって、既に『タクシー・ドライバー』(76)とか『七人の侍』(54)は観てる。でも今の子はそれを知らないので、全く映画を観ていないし、現実逃避っていうのはここ(スマホ)にあるので、これで現実逃避とか映像というのはもう事足りていますので、そういう子達に向けて映画は面白いから観なさいと言っても、既に現実逃避ということは娯楽として凄い大きな原動力になるじゃないですか、逃げてる訳だから。だけど今はその先に逃げていて、映画に逃げて来た訳じゃない子達が普通に入学してきているので、もう学校なんですよ。夢のランドに来た訳じゃないんです。そこで問題なのは、映画って絶対的に非日常なんです、非日常を感じてるから、という中に毎日の撮影があったりすることが望ましく、それを与えてくれるのが街なんですよね。ロケーション撮影させてもらえる、あるいはひょっとしたら俳優かもしれないし、オールセットの映画でも、撮影所の時代にそれがルーティン(日常)にはならず続け得たと思うんだとしたらやっぱり街とか、そういう自分達のことを熱く見てくれるお客さんや映画が来てるよって街で見学に来る人達の存在っていうのが大きいんじゃないかなと思うんですよね。それを今の学生達に伝えようがないじゃないですか?じゃあ映画の娯楽性と映画でしか出来得ないこととか、全ての他の現実性みたいなことを、全部借りてるもの抜きにして映画だけで何かをやるとしたら、それはどんなものなのかみたいなことを教えたいって思っちゃうんだけど、それを自分自身がまず30代過ぎて、もっと後までずっと分かんないでいたことを、たかだか4年間で伝えられる訳がないってことと、現実逃避ではなくて夢の国でもないものとして、これをどうポジティブに学生達は捉えるのかっていうのは、ちょっと新たな段階に来ちゃってるんですよね。伝統芸能ですって言ってしまった方が楽かもしれないけど、映画の流動性とか変化性みたいなことを養成するものに伝統芸能というのは非常に難しい問題で、型から入ってその本質の意味を知るっていう世界にはなれないんじゃないかな、映画って。そうしたらそれこそあるマスターピースを作り続けることの意味ってないじゃないですか、プリント(複製)だから。どうしたらいいんでしょうねっていうのは、凄く現実問題として思ってますよね。
OIT:卓爾監督の映画とかは学生さんは観てるんですか?
鈴木卓爾:分かりません、見せたりはしてるんですけど。中にはいます、『ゾンからのメッセージ』を観て来たっていう子も。
OIT:この日本でも稀有な鈴木卓爾監督が先生なんだよって、そういう感覚を持ってる子もいると。
鈴木卓爾:いや、持ってないと思います。こんな稀有な先生がやってていいのかっていうのは、ちょっと分かんないとこありますよね。だいたいみんな入学してきて、僕だけじゃないですよ、他の先生もそうだけど、映画の概念を崩すところから始めるわけだから。
OIT:“先生”というと現役を退いて余生を自分が築いてきたものの後にやるみたいなのが昔の先生ですけど、卓爾監督とかの場合は現役バリバリで、今まさに日本映画の最前線を走っていると同時に教えている訳ですから、これはだから非常に珍しい事態なんじゃないですか。
鈴木卓爾:今、ぴあフィルムフェスティバルの応募作品で去年の入選作品、グランプリを含め、ほとんどが学校から生まれた映画なんです。もうこの事態は、そういう動きになってきてるっていうことを、みんなが認めないといけないし、あるいは映画というのは学校からしか生まれてこないのかもしれないぐらいなことになっているのであって、そこで何か面白いことが出来るのかっていうことが問われてますよね、今。映画の基礎みたいなことを教えるという段階ではない気がする、僕がもう大学で教えてるっていうこと自体が、何かやっぱり商業映画では出来ないことをやる段階に来ているし、それがお客さんに届くっていう段階に来るべきなんじゃないかな、タイミングとしてはそうなってますよね。そういう意味では『嵐電』ってヒットしなきゃいけないんですよ、するか分かりませんけど。ただ『カメラを止めるな』(17)がENBUゼミから生まれてるのは、もうそういうことなので、時代は変わってしまってるんですよ、去年の段階で。そう思いますよね、どうなるんでしょう?これから。さっぱり分かりませんけど。


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