OUTSIDE IN TOKYO
MIYAKE SHO INTERVIEW

三宅唱『きみの鳥はうたえる』インタヴュー

7. もしあの日が雨だったら、
 シナリオを書き換えて事件を撮らなきゃいけなかった

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OIT:その話はすごく良く分かります。こういう言い方が正しいか分かりませんが、パラレルワールドみたいな感じで同時に存在している、小説では母親の件はああいう事件になってしまったけれども、三宅唱の映画では同じ人たちがちょっとした選択の違いでまた違う人生を生きて、その輝きをフィクションにしている、そこには、それぞれの表現分野における現実的な強度があります。
三宅唱:小説では天気とか風土によって左右されるような心情が描かれているのですが、それってすごく人間っぽいなと思いました。映画化するに当たって、舞台が(国立から函館に)変わったので天気も風土も変わる、そうなると人の心も変わるはずだよな、と考えました。函館に行ったら、暑い、海に行きたいって言うのは全く成立しない。函館に行くことで、登場人物たちの気持ちが変化するところ、もっと言えば、心が救われるようなところがあるだろうなと思ったし、それは小説を裏切らないはずだと思った。小説の印象的な場面として、静雄が母を見舞いに行っている間、「僕」が、雨なんか降らなきゃいいのにな、晴れたらいいな、と考える場面がある。その後雨が降り、そして事件が起こる。静雄が母を見舞う病院のシーンの撮影前に、「晴れてくれ」と祈っていたのですが、見事な晴天になってくれて、撮影中一番ホッとしました。大げさに言えば、もしあの日が雨だったら、シナリオを書き換えて事件を撮らなきゃいけなかった。

OIT:最初に小説と映画のアートフォームの違いっていう話がありましたけど、やっぱりそれがあるかなと思いますね。小説である人物が絶望的に描かれていたとして、それを映画化する時には、実際に生身の俳優が演じて具体になり、実体が出来る、そうするとそれをそのまま絶望的に描いては映画として成立しづらいんじゃないか、映画の場合はもうちょっと違う描き方になるんじゃないかということを思いますけれども、この作品に関しても、そういうところがあるのかなと感じたんです。
三宅唱:僕は極力、価値判断をしていくようなカメラポジションの置き方ではなくて、どんな場面であれ、どんな心境の時であれ、なるべく同じような距離感でずっと見守りたい、そういう風にして語る映画にしよう、と考えていました。カメラポジションやフレームやカット割による映画表現が目立つようなことは今回なるべく我慢して、ただただ人を見つめていくことだけで色々と世界が見えてくるような映画にしたかった。だから、同じ場面を前にしても、幸せを感じとる人もいれば、ヒリヒリしている人もいれば、くそ退屈に思う人もいるだろうなと予想していました。まあ、あえて言えば、全てに愛おしさを感じてもらえるようにこっそり誘導しようとしているというか、そうあってくれればいいな、くらいは考えていましたが。

OIT:日本の映画って一種倒錯的なものになりがちな傾向があるという感じを僕は持っているんですけど、三宅さんの映画はそうじゃないんですよね。
三宅唱:どうなんでしょうか。

OIT:それが面白いというか、一つの三宅さんの個性でもあるのかなと思うんです。
三宅唱:自分のことはよく分かんないですけど、ルサンチマンみたいなものは、あるにはあるけど、それが映画を作るモチベーションには全くなっていませんね。

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