OUTSIDE IN TOKYO
YOSHIGAI NAO INTERVIEW

吉開菜央『Shari』インタヴュー

7. 自分とは相容れないものを受け止めながら、
 でもどうやって私はやりたいことをやろうかしらという感じ

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OIT:その編集作業をやりながらナレーションで加えていった台詞があるっていうことですか?
吉開菜央:そうです、いっぱいあります。
OIT:その段階でかなりこの映画が作られたっていうことですね。
吉開菜央:そうですね、思い付いたらすぐ入れてました。
OIT:そういう感じで入れたんだろうなって思える面白い言葉がそこかしこにあって、子どもが言い間違えたのをそのまま入れた箇所もあったようですね。そうした諸々が編集の段階でシェイプされていって、ブラッシュアップをされていったということですね。
吉開菜央:そうですね、正直に言うと、最初の段階では全体の構成がこうなるとは全く思ってなかったんです。なんで最初にこの画が入って最後にあの画なのかも、その流れにすると何が起こるのかっていうこともはっきりとは分かってなかったんですけど、自然に生まれたナレーションがはまったっていうのもありますけど、編集の時に一つ一つ組み立てながら画や音が意味を自分に教えてくれて、ひとつの流れを掴むことができました。
OIT:面白いですね。一人で作る映画だったらそういうことも出来るんでしょうけど、地域の人々を巻き込みながら妄想を爆発させてるっていうあたりが、なかなか普通出来ないだろうなっていう感じがします。普通はどちらかに行きがちですよね、アートフィルムなのかご当地映画なのか、どっちかに行きがちだけど、この映画は第三の道を行ったという感じがします。
吉開菜央:いわゆるちゃんとした映画、吉開組!みたいな感じで、多人数の座組みで行ってたらこうはいかなかったと思います。ふっとした思い付きでやっぱりあそこで、もう一回これを撮りたいんですけどとか、みんな何でそれ撮りたいのかよく分からなかったと思うけど、わたしの直感を尊重してくれて、このメンバーだから出来たことだと思いますね。
OIT:“曖昧なもの”っていうテーマが中盤で出てきて、そこで言っていたことが凄く面白かったんです。
吉開菜央:漁船のある港で向こうに“赤いやつ”が歩いて行く時ですかね?
OIT:はい、そうです。境界線があるようで無いような曖昧な領域、そこのギリギリの間の部分っていうのは何なんだろうみたいな話をされてましたよね?
吉開菜央:ちょうどそのシーンの前にモモンガを観察しているアケミさんが、「共存、共生ってよく言われてるけど、うちらはシュパって簡単に線引けないところに生きてるんだなっていうことはよくここの人達と話してるよ」って言ってたんです。それを受けて、私もそういうナレーションを入れたんです。きっちり線が引けないところ、人と獣の違いとか、“赤いやつ”はまさにそんな感じだし。ちょうど“赤いやつ”が光が当たっているところから、光が当たっていない暗い方に行く、そういう画が撮れてたから。あと鐘の音もそうですよね、聞こえなくなる瞬間はどこから聞こえなくなったのか、境がわからない。そういう風にインタビューで録れた斜里の人の声と、それを聞いて自分が感じたことを関連させてナレーションを足していきました。
OIT:この映画とは関係なく、そもそも斜里の人達はこういうことを日常的に議論してきたということが素晴らしいですよね。
吉開菜央:そうなんですよ、自然にそういう話が日常的に出てくるんですよね。人と獣とのせめぎ合いだったり、職業の違う人と人同士のせめぎ合いの話も自然に出てくる。本当は世界中どこでも色々な価値がせめぎ合っているはずだと思うんですけど、斜里はそれを隠さないで、普通に会話していた印象なんです。それも例えば、Twitterであるような一方的な“攻撃”じゃなくて、それこそ雲と風が渦巻いてるようなせめぎ合いというか。自分とは相容れないものを受け止めながら、でもどうやって私はやりたいことをやろうかしらという感じ、だから欲が無いわけじゃ無いんですよね。ちゃんと自分の生きたい欲、やりたいことの欲はあるけど、それをどうやって折り合いをつけていくか、でも折り合いつけたからってすぐに解決したってことではない、ずっと考え続けることだからずっと考えてる、それを凄くカジュアルにナチュラルによそから来た私達にも普通に話してくれるっていう感じがすごくあるなと思いました。

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